見て読んで聴いて書く

映像、書物、音楽などについての感想

石原慎太郎「国家なる幻影 わが政治への反回想」続き2

「金権角栄との対決」「青嵐会 血盟の論理と行動」を途中まで行きの電車で読む。
青嵐会幹事長となった著者は、会発足の際に血判状を作ることを提案する。
なるほどな、と思った。
三島由紀夫について、“国家と肉体が切り結ぶこと”として語っていた著者らしい。

どうやら、著者の内面にあるのは
“ある種の肉体主義とヒロイズム”なのではないかということがわかってきた。
これがわかっただけでも、本人による長大な回想録を読んだ意味があった。
石原慎太郎という人物のもつ妙な存在感がどこを基盤としているのか、
しだいに自分なりに対象化されつつある。
このあたりから、著者の記憶も鮮明なのか、あまり散漫にならず
話としても面白くなってきた。

この本を読んでいて“ヒロイズムと暴力”ということが、ふと頭に浮かんだ。
あとで何か思いつくかもしれないのでメモしておく。

帰りの電車でステレオラブを聴きながら「田中金権政治の崩壊」「都知事戦の悪夢」を読んだ。
国交正常化以降の日中航空協定についての記述が続く。
中国をシナと呼び、敵対意識を持つ著者だが、
自分の行動が“人物”である周恩来から“敵ながらあっぱれ”的に評価されたことを人づてに聞き、
うれしいのだが、微妙でもあると語っている。
田中元首相の失脚については米国の陰謀であるという説を再度説明している。

「都知事戦の悪夢」では興味深い言葉がある。
P275 「私は何に限らず人間の魅力の所似の最たるものの一つはウィットだと心得ているが、特に政治家はそうだ」
と語っている。
これは著者についてもいえることなのではないだろうか。
ここまで読んで私が著者について抱く人間像は
“多分に独善性のあるヒロイズムとなんらかのオブセッションを抱く男”だったが
そこに“ウィット”という要素を含めてもいいのかもしれない。

独善性的なヒロイズムを持つ男なんて最悪だが、著者はそれだけではないと私は思う。
妙な魅力があるように思えたからこの本を読んだのだ。
それはウィットなのかもしれない。
“ヒロイズムを抱きながらも、ファナティックでなく冷静に自分・他者を客観的に見て笑いに転化させることができる”
著者はそんな人物なのかもしれない。

そんな著者が生理的にどうにも許容できない人物が、東京都知事美濃部亮吉と総理大臣にもなった三木武夫だったという。

都知事戦で美濃部と戦い、敗れたときのエピソードで傑作なものがあった。
ユニークな右翼として知られた赤尾敏とのいきさつだ。
選挙中に美濃部にファシストと称され、著者が困惑する中、泡沫候補として都知事に立候補していた赤尾が政見放送でいった言葉だ。
「美濃部は石原のことをファシストと呼んでいるが、石原はなぜ言い訳などするんだ。それでいいじゃないか。〜ファシズムとはイタリア語で束ねる、ばらばらの薪を、一つに束ねるということだよ。それはいいことなんだ。きわめて大事なことだ。今の日本はばらばらじゃないか。それをきちっと束ねる仕事を石原がやるべきなんだ。それを美濃部にいわれたからって、なんで僕は違う、ファシストじゃないっと言い訳するんだ。〜そこがまだ彼の駄目なところだ。〜私は彼に期待しているんだよ。彼がこの東京できちんとファシズムをやることをね。彼はそのために立候補したんです。彼はまだちょっと若いが、いいファシストなんです」
それに対して著者は
「いわんとするところは有り難く重々わかるにしても、はたしてこれが応援演説になるかどうかは微妙なところだ。もっとも反共の闘志たる赤尾氏には、後にも記すが最後までいろいろな局面で一方的に世話(?)になった」
と締めている。“最後の局面”についてはここでは省くが、
なかなか笑える一節だった。
↓に続く。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20110824/1314152255
国家なる幻影―わが政治への反回想