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石原慎太郎「国家なる幻影 わが政治への反回想」続き3

PJハーヴェイを聴きながら「環境庁で」「水俣病 葬られた報告書」「ホーキング教授の予言」途中まで読む。
都知事戦で敗退、1年程度の浪人を経て衆議院に復帰するが、そのことについては特に多くは語らず。

福田赳夫総理の元で環境庁大臣となる。福田に対しての評価は高い。

環境庁大臣として水俣病問題と取り組んだことを語る。
その姿勢はこの文章を読む限りでは、きちんとしたもののように思える。
もちろん著者自身によるバイアスはかかっているものなので、
実際の現場を見た人によってまたそれぞれ違うのかもしれないが……

マスメディア、そして“善意ある行動者”への不信がこの章では強く語られている。
ろくな文章も書けない新聞記者、モンタージュで事実をミスリードさせるテレビの編集、などなどでひどい目に遭い、
あるろくでもない新聞記者には暴力をにおわせて脅しつけたこともあると得々と語っている。
このあたり、“誤解を招きやすい、むしろ誤解されてもよし”とするような著者の性格が現れている気もする。
さらに、他者を基本的に信頼していない排他的な面のある性格と、
その根底にある万人が簡単にマスメディアを通して人のこと、行動がわかることなどできない、という認識がかいま見れる気もする。
ここについては、そうだと断定はできないのだが。微妙にそのように感じ取れた。

水俣については経済成長にともなうゆがみ、それが巻き起こした悲劇と語り、
当事者意識にかける、政府や責任当事者の遅い行動がさらに状況を悪化させたという趣旨のことを語り、
さらに、そのことは“薬害エイズ”問題にいたるまで変わっていないと語る。

このことは、まさに現在の東電福島原発問題に当てはまるものではある。
著者が福島原発問題についてどう語っているかは検証していないので、そのスタンスは知らないが。
ちなみに、著者はこの本では当然のことながら、原発推進派である。

水俣病の惨事が発生してから数十年後、テレビ局が現地を取材、
この問題に取り組んだ政治家で一番親身になってくれた人は誰かとインタビューしたところ誰もが著者の名を挙げたと、
何気なくも自身で語っていたりもする。
自画自賛ではあるのだが、さほど嫌味なくすらっと読ませるのはさすがというべきか。
それに対する自負はあるようである。
住民を力づけることとして石川さゆりのコンサートを住民主催という形で開くことにも尽力したと語る著者。

ただし、その後、語る言葉はシニカルでもあり虚無感にも満ちている。
P341 「既存の人間関係に頼って、また頼られた人たちの好意のお陰で彼等もたった一度高名な歌手を迎えて自らのお手盛りの興行を持ち、その一日だけは町はにぎわったとしても、それが終わった後何が残ったのかを思えば、私の名を口にした人が誰と誰だったかは知らぬが、そんなささやかな事柄しかが政治にからんだ出来事の思い出として残らぬということのなんという空虚さ、なんというむごたらしさかと改めて思う。むしろ私の名前をそんなふうに覚えていてくれる人たちがいるということで、もうとてもあの土地を訪れる勇気が沸いてこないような気さえする」
そのあたりは透徹した視線をもっているといえるのではないだろうか。読み取り次第で微妙なものもあるが……。

「ホーキング教授の予言」ではそれを受け、
ホーキングが来日、講演での質疑応答の際
「文明が高度に進んだ惑星はある限界が過ぎると加速度的にすべてが不安定になり、自滅してしまう」と語った言葉を引用していることにつながっていく。
そして、
P347 「政治が良し悪しに関わりなく有無いわさずに社会工学的に他のいかなる方法よりも直截な規制力を持つ限り、今日の政治家の絶対必要条件として自分自身の文明論を持たなくてはならぬという自覚だ」
と語る。
以下、著者の国家論が始めてまとめた形で語られる。
かいつまんで説明しずらい文章なのだが、あえて述べると、

“文明”というものは人間の個々のもつ欲望、目的、喜びを押し流してしまう強大な力を持つものである。
そして為政者はそのことを心しなくてはならない。
水俣はそのような点で文明のもつ負の部分が発露してしまった悲劇である。
文明を超えた“文化”の真髄にある公理は、自然だけが人間にとっての不変の価値であるということ。
だが、そのことについて考えをめぐらせることもないような人間が国家について民族の指針をかかげることは間違っている。
だが、所詮はそんな人間が為政者になっているのだ。

という感じだろうか。
その後に国家というものの歴史を語っているのだが(P348)
そこで語られているのは“帝国”とされる大国のことだけである。
帝国としての国家のありかたを語っているのである。
帝国における為政を語っているのである。
著者が“帝国主義者”であるということがわかる記述である。

P349以降のスイカのエピソードが興味深い。
和歌山でコレラが発生し、和歌山産のスイカが売れなくなった。和歌山出身の玉置和郎議員が、デマを払拭すべく、閣議室に大量のスイカを持ち込み、閣僚に食すことを強引に勧めたという。著者は勧められると
「控え室ですでにいただきました。実にうまいスイカですよ」と食べてもいなのにそう語ったという。
そして福田総理も同様にしてかわしたという。
ここを読んで、もしかしたら、金町の浄水場で水を飲んだときの一件、もしかしたらなどと邪推してしまった。
政治というものはだましあいと言っている著者のことであるから……
飲んでいるときのいかにもまずそうな顔。あれは不自然だと思う。普通なら、軽く飲むはずだ。
動画を見ていないので邪推にしか過ぎないのだが……

訒小平に手玉にとられた日本外交」では
フィリピンのマルコス大統領とのやりとり、沖縄の尖閣諸島問題について語っている。
尖閣列島については著者は一貫して強硬論をとっているのでその根拠の論旨はここでは省く。
著者の姿勢は基本的にはぶれてはいないように思える。
その主張はともかく弱腰じゃだめだということにつきる。
尖閣諸島の地権者についての話がまた興味深い。

尖閣諸島の一部の地主になってやろうとした著者らは沖縄の地主に交渉をしたという。
そして沖縄の地主がもっていた権利(はっきり書いていないがすべて)を、埼玉に住むある一族が買い取ったということを知る。
著者は埼玉のその一族に交渉を試みるが、尖閣諸島にかんすることについてはいかなる人にも会わない、一切話しをしないとのことで、難儀するが、著者の母親の関係で、面談の約束をとりつけることになんとか成功したという。
面談はしたのだが、結局なぜその一族が尖閣諸島の地権を買い取ったのか、その目的はわからなかったという。
非常に不思議な話である。もしくは理由は知ったが著者がここには書かなかったか……
→20111213のニュースで、息子の石原伸晃自民党幹事長が国としてこの土地を買うことを提案している。

また、大統領候補候補だったときのロナルド・レーガン(リーガンとも混同表記されていた)が来日した際に財界人を紹介したエピソードなどもある。

新自由クラブの偽善」では河野洋平、そして新自由クラブの面々を切って捨てる。
自民党党綱領の執筆をまかされた河野氏が書いた文章があぜんとするほど稚拙なものであり、その綱領はボツとなり、そのことに傷ついた河野氏自民党を出たという“推論”まで披露している。

↓に続く。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20110825/1314239089


国家なる幻影―わが政治への反回想