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小林信彦「おかしな男 渥美清」

おかしな男 渥美清 (新潮文庫)

おかしな男 渥美清 (新潮文庫)

小林信彦の書いた本は今までに一度もきちんと読んだことがなかった。

子供のころにあった“オヨヨ騒動”で、彼に対して良い印象を持っていなかったのと、どうも作風、文章のテイストが自分の好みと違うように思え、読まなかったのだ。
ビートルズをめぐる松村雄策との論争でもあまりいい印象を抱かなかった。
結局小林は、いわゆるトラブル・メーカーなのだろう、と思っていた。

週刊文春の連載エッセイを読むようになり、意外に興味深いことを書いている人だと思うようになった。
そんなときに、たまたま図書館でこの「おかしな男 渥美清」を目にした。
そして、借りてみたのだ。

私は渥美清については若いころはまったく引かれるものがなかった。
男はつらいよ”シリーズも見るようになったのも、渥美が死去するちょっと前からである。
10代、20代のころはパブリック・イメージの“寅さん”に非常に違和感を感じていた。
多分、
「“人情”“下町”を無条件に礼賛する作品」というイメージに反発する気持ちから、拒否していたのだと思う。
当時の一部のマスコミにあった、東大法学部を卒業した監督が、庶民におもねって作った偽善的な“人情映画”である、という批判などに影響されていた面もあったかもしれない。

初めて見たのは30代になってからだ。
面白かった。
特に初期の作品はテンポもよく、勢いがあり魅了された。
続けて見てしまい、結局全シリーズの2/3くらいは見てしまった。
山田洋次についても、結局、多くの作品を見て、脚本を読んだりもした。

で、この「おかしな男 渥美清」の感想だ。

この本は、著者によると、'61年に渥美清と出会い、彼が死去するまでを〈一切、取材をせずに〉書き上げたものだ。晩年については、疎遠となったので、付き人の書いた本を基にしたという。

非常に面白い内容だった。
ただ、読んだ後、独特の空虚な気分になる。

小林という人はやはり癖のある、屈折している人間だと思う。
人との交流を好まなかった“変わり者”である渥美清が小林に対して、ある種の友情を感じ、夜を徹して話し合ったこともあるというのに、小林の渥美に対する視線は冷徹である。
渥美が周囲に信望のない、評判のよくない人間であることを小林はここで何度も書いている。
だが、この文章を読む限りではことさら人間的にひどいようには思えない。
狷介で人と容易に交わらない性格ということはわかるのだが、
どうしてここまで人間性を否定するのか、どうも理解できない。
計算高い行動があるのは芸人として勝ち上がっていくうえで必要なことだろう。
小林自身がひどい罵倒を受けた、裏切りを受けたということはここでは書かれていない。
むしろ気難しい面は感じられるが、この本を読む限り、渥美は小林に対して格別に心を開いて接していたように思える。
なのに
「この男とはもう少し距離を置いた方がいい、とぼくは思った。」(P162)なのである。

このように非常に突き放した視点で渥美との交流が語られるのだが、読み進めていくと奇妙な思いにとらわれてくる。
実は小林と渥美は似ているのではないか、と。

渥美清とソリの合わない存在として小林は、ハナ肇を挙げる。
ハナに対して小林はこう書いている。
「才能の不足を人徳で補う利口者というべきか。
これは渥美清とは合わないだろう、と思った。
どちらも、本質的には柄が悪い。しかし、渥美清はそれを恥じて、スマートになろうとしている。一方のハナ肇は「おれの特徴は下品さだ」と開き直っている。そして、やたらに大きな声で喋る」(P157)
そして、小林も「ぼくはこの人が苦手だった」(P157)
と語るように、ハナのような人間と合わないのだ。
“才能の不足を人徳で補う利口者”がハナ肇なら、
渥美清は“才能はあるが人徳はない、おかしな男”となるのだろう。
そして、その“おかしな”という点は、何か周囲になじまない風情を醸しているという意味といってもいいだろう。
この言葉は著者の小林にも当てはまるのではないだろうか。

あとがきで小林はこう書いている。
「彼は複雑な人物で、さまざまな矛盾を抱え込んでいた。無邪気さと計算高さ。強烈な上昇志向と自信。人間に対して幻想をもたない諦めと、にもかかわらず、人生にある種の夢を持つこと。肉体への暗い不安と猜疑心。非常なまでの現実主義。極端な秘密主義と、誰かに本音を熱く語りたい気持ち。ストイシズム、独特の繊細さ、神経質さ」(P463)

文章というものは読んでいると著者の人間性が見えてくる。
小林は渥美に距離を置いて、俺はあいつとは違うと言っている。
だが、この本を読み終えた印象では、小林は渥美に似ているように思える。

このあたり、小林は意図しているのか、意図していないのかがどうもよくわからないのだが……

ただ、渥美清になくて小林信彦にあったものはこの本を読んでいて一つ明らかになっている。
されは“インテリ”が、他者に示す小ばかにした嫌味な部分である。
寅次郎なら“さしずめインテリ”と嫌ったであろうものだ。

渥美に教養がないことをさりげなく(嫌味っぽく)語り、「俺はお渥美とは違う」と言いながら浮かびあがって来る渥美への羨望、嫉妬などの怪しい感情が読んでいて興味深かった。

小林が新宿の街頭で晩年の渥美と偶然遭遇する、最後の出会いとなったラスト・シーンがそういった意味で顕著な例となっている。
渥美は当時を振り返り、お互い“気鋭”だったね、と懐かしむ。
だが、小林はその言葉を、功成り名遂げた渥美だからこの言葉が言えるのだ。それに比べて自分は……
と湧き上がったドロドロした感情をこの本で吐露している。
小林という人が、渥美よりよっぽど業の深い人だということがよくわかる場面だ。

小林信彦はたしかに面白いものを書くのかもしれないが、距離を置いて読んでほうがいいかもしれない。
ちょっとした“毒”をもっている作家だと思う。
そしてその“毒”はクリエイティビティとは違っう、彼のキャラクターが生むイヤーなものに思える。
その毒が彼の周囲で数々のトラブルを生んできたように思えた。

もしかしたら私は、小林の毒を無意識のうちに警戒して彼の本を読まなかったのかもしれない。

ただ、amazonのレビューを見ると、“渥美清に対する深い愛情が感じられる好著です”的なことを書いている人も複数いる。人によって受ける印象がずいぶんと違う本なのだ。

これは著者の立ち居地が明快でないということなのかもしれない。

そして私は文章をよんで立ち居地がはっきりしてこないものはあまり好きではない。

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この本、そして小林信彦という物書きについてはまだ自分の中でまとまっていないので、ほかの小林の著作もいくつか読んでから更新していきたい。
小林信彦の初心者なので、もう少し彼の著作を読んでいくと印象は変わるかもしれない。
その際は誤解だったと追記することにする。

追記20140304
この文章を読んでから、毎週、週刊文春の連載を読んでいる。
以前ほど印象は悪くなくなった。
いろいろと学ぶことも書いてあり、ありがたい存在である。
単行本は読んでいない。