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柳沢きみお「マンガの方法論 おれ流  柳沢的マンガの創り方」

マンガの方法論1 おれ流 (コミック)

マンガの方法論1 おれ流 (コミック)

先月、漫画家・柳沢きみお初のエッセイ集「なんだかなァ人生」を読んだ。

なんだかなァ人生

なんだかなァ人生

↓「なんだかなァ人生」の感想メモ
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120424/1335253222
その後、柳沢の創作論的な本が出ていると知った。読んでみようと思った。
それがこの「マンガの方法論 おれ流  柳沢的マンガの創り方」である。

先日読んだ村上もとかの著書「終わりなき旅 僕はマンガをこう創ってきた」と同様に、自分の人生を振り返りつつも自らの漫画論、創作論を語ったものだった。

終わりなき旅 僕はマンガをこう創ってきた

終わりなき旅 僕はマンガをこう創ってきた

↓「終わりなき旅 僕はマンガをこう創ってきた」の感想メモ
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120308/1331210044

村上と柳沢の2人は世代も近く(村上60歳、柳沢63歳)、創刊間もないころの少年ジャンプでデビュー、そして現在も前線で活躍している数少ない漫画家という点で共通する。
作風はまったく違うのだが、私は両者ともにそのころから読み続けてきた好きな漫画家だ。

面白いことにこの本、村上と同様に、過去の自作を時代順に1話分掲載しつつ、漫画論を語っていることも共通している(村上の場合は“絵”にこだわりがあるので原画掲載という特別な方法を取っていたが)。
しかもタイトルは、かたや“おれ”で、かたや“僕”という面白さ。

掲載している漫画は、以下の6作品。

・週刊誌デビュー作「女だらけ」
・初期作としては気に入ってるという「すくらんぶるエッグ」、
・著者が自作で最大のヒット作と語る「翔んだカップル
・青年誌での連載を始めたころの「妻をめとらば」
・現在の柳沢にとってライフワークともいえる「大市民」
・そして現在のヒット作「特命係長只野仁

特命係長只野仁」「大市民」を除くとすべて連載でずっと読んでいた。

懐かしい思いで読み返した「女だらけ」「すくらんぶるエッグ」では、あまりの素朴な絵にちょっと隔世の感を抱いた。

ただ、不思議なことだが今読んでも面白かった。

柳沢は絵についてのこだわりはなかったようだ。
絵にこだわりつづけた前述の村上もとかとは対照的だ。
「私のような下手くそなマンガ家がよくぞ今まで採用され続けてきたものだとまず思ってしまいます。おまけに私はその絵の技術を向上させようなどと考えたこともありませんでした」(P5)と語っているくらいである。

そしてこう語る。
「私がここでお伝えしたいのは、主に『作家には言いたいことがある』の一点に尽きるような気がするということです」(P6)

以下、書かれているのは創作における技術論ではなく精神論的なものだった。
ただ、非常に読みやすく、興味も引くように書かれているのであっという間に読めた。

読み終わった後に、感想メモをつけようとしたら、あまり頭に残っていることがないと思った。
さらっと気になる部分を再読した。
実は難しいことを語っていることに気付いた。
以下、興味深かったことをメモとして残す。

◆ギャグ漫画で意識したことについて
「元々ギャグマンガ志向でなかった私が取り得としていたのは、ギャグテイストを取り入れつつも、誰もが『そうだったらいいのになあ』と思える憧れを物語の設定に据えようということでした。これは自分自身の憧れにも通じているのですが、それ以上に対象読者の願望をどのような形で出すかを常に意識してたと思います。お客さん(読者)あっての商品という割り切りが、自分には早くからありました」(P45)

これは新井一が「シナリオの基礎技術」などで書いていた“憧れ性”というものと同様のものだろう。

◆漫画を描くということについて
「いま、どうしても手に入れられない何かを、物語として表現する。ただ、それだけのこと。ここではない何処かを、いまいる場所でない何処か違う場所を、それを夢想する冒険家は己の肉体を使ってエベレストの頂上を目指し、南極点を目指すことになるのです。
それほど強靭な肉体も冒険心も持てない私はペンと紙を使って同じことをしているだけです。これが役者なら、今存在する自分ではない自分、これを己の肉体を使って表現していくことになるわけです。
ですから作品のベースにあるのは、究極的には己の欲望ということになるのでしょう(私としては、それを読者の欲望に翻訳して提出しているつもりです)。いまだ我が手に掴み取ることのできない何か、いまだ果たせぬ見果てぬ夢。その意味では私にとっての作品とは己の妄想であり、白昼夢でしかないのです。
年とともにその妄想には変化が生まれています。20代の頃の妄想と40代のころの妄想には歴然とした差があります。そして50代、60代になれば、また違った妄想が生まれてきます。私は、只単にそれを記録しているに過ぎないのです。だから描くことがないなどということは私にとってはありえないことなのです。私の生命が終わるか、私が欲望を持てなくなったときが私の作家生命の終わりであり、私という人間の終わりのときだと思っています」(P47-48)

創作におけるモチベーションについてのことといえるが、“読者の欲望に翻訳して”というところには長年プロの前線にいた人という感じだ。

◆キャラクターについて
キャラクターの重要性を語るが、「キャラが立つ」という言い方には、否定的なことを述べ、以下のように論ずる。
「キャラクターとキャラクターの間にどんな関係性を作れるかが、キャラクター造りのすべてだと言えるのではないでしょうか。
どんな凄い特性をもったキャラクターを作りだそうとも、そのキャラクターと他者の間に面白い関係性が作れていなければ、読者はそのキャラクターに感情移入でき得ようはずはない」(P50)

このあたりもシナリオ技術書を読むと書いてあることではある。ただ、関係性が重要といっているのは流石ではある。

◆物語とは何かについて
「物語というのは『人間を描くために』存在しているのです。ですから、物語、つまりストーリーは『主人公を語るため』に存在しているはずのもので、ストーリーを語るために主人公が存在しているわけではないのです。
主人公の造り込みが完璧に出来上がったとき、ストーリーは一つしか存在していません」(P52)

この部分はすごい。
キャラクターが造り込まれればストーリーは一つしかないとまで断言している。
そしてさらにこう語る。
「物語は、人間の実在、さらに実在と真実を語るための手段です。物語が人間の実在を語らないとするなら、それは本来目的のための手段でしかないものが目的化しているという、極めて自閉的な状態なのです」

ここまでくると哲学的ともいえるのになっている。

◆コマ割りについて
柳沢は「コマ割りとは時間に関する感性の表現」であり、生理的なもので技術ではないと語る。
このあたりは、コマ割りをしたことのない私にはいまひとつ実感できないものがあったが、独自の見解をもっているようだ。

◆マンガとは預言である。
柳沢はチャンピオンでの連載時、活躍する山上たつひこ鴨川つばめにはとうてい勝てないと思い、ギャグ漫画に限界を感じていたという。
そのときに着想したのが、少年誌におけるラブ・コメディーだったそうだ。
ラブ・コメディーの発想に至るまでの過程が興味深い。
編集者から格闘マンガを描くことを進められた柳沢は、現代社会で男同士が必死に戦うという設定にリアリティー、切実感を感じることがなかったという。
そこで真剣に競い合うものとは何かと考え、それは恋愛ではないかと思い至ったそうだ。
結果、周囲の反対も押し切り、その着想から作った「翔んだカップル」が大ヒットした。
柳沢は、少年誌においてラブ・コメというジャンルを確立したのだ。
いわば時代の先を見たのである。
柳沢はそのあたりを予言でなく、預言としたいようだ。
何かから託されたものとして捉えている。
預言という言葉は非常に唐突だが、この発想は非常に興味深い。
自分が未来を予言するのでなく、第三者からそれを託されるという認識を抱いているようだ。

◆スランプからの脱出
柳沢は「翔んだカップル」終了後、青年誌に進出するが、スランプに陥っていたという。それがある日、悟りを開くような奇妙な経験を経て、スランプから脱したのだという。
その体験については多くを語っていないが、柳沢はドラッグとかをやったり、宗教にはまるタイプではないと思える。
宗教の手垢に染まっていない広い意味での神秘体験といえるのではないかと思う。
ただ、この本ではその体験については詳細には書いていない。
いつかまとめて書いてほしい。

その後、柳沢は多いときでは連載7本を抱えるという超売れっ子となる。
その時期の創作過程は以下のようだったという。
「量産の秘密はこうです。当時の作画は、すべてぶっつけ本番で描いていたのです。スタッフがみんな集合して、一斉に「せーの」で描き始めるわけです。アイデアもできていない、コマ割りもしていない白い紙を前にして、私が考えて描き始め、スタッフにも指示を出しつつ、ペン入れをいきなり次々にこなしていくのです。音楽にたとえれば、アドリブ演奏のようなものとでも言いましょうか」(P114)

ノリに乗っているという感じだったのだろう。こうも語っている。

「夜は布団に入ったら、絶対にマンガのことは考えないようにしていました。なぜなら、あとからあとからオーラのようにアイデアがわいてきて、それを忘れないようにいちいち書きとめていたら、眠れなくなるくらいですから」(P115)

クスリ、宗教なしでこの状態に至ったのだから、まさに神がかっていたといえのではないだろうか。なかなかすごいことだと思う。

◆「妻をめとらば」のエンディングについて
気のいい証券マンの青年が、結婚相手を求めてさまざまな女性と出会う「妻をめとらば」は突然、衝撃的なエンディングを迎える。
連載を読んでいた人はびっくりしたと思う。私も驚いた。実はこれは、打ち切りを言い渡された腹いせでもあったのだという。ちょっと意外な話だ。人気はそこそこあったと思うのだが。
でも、今にして思うとこの作品は婚活漫画だ。やはり、先見の明はあったということか。

◆マンガは神の恩寵とまで語る
「私を取り巻く現実は、幼いころから私に対して現実への不適応性、激しい葛藤、そして絶望しかもたらしませんでしたから。
それでも、私にはマンガがありました。マンガを通して、私は心の中の葛藤、あがき、そして絶望を訴え、表現することができたというわけです。
マンガは私にとって癒しであり、救済であり、おおげさでなく神の恩寵ともいうべきものなのです」(P149)

このあたりまでくるとちょっと強烈過ぎてついていけない部分もある。

◆「大市民」について
この作品については「これは、もう、完全な作者のひとり言です」と語っている。
それをどう娯楽作品として構成していくかが難しいのだとのこと。
この作品は現在の柳沢にとって非常に重要な作品だそうだ。この本に掲載されていた「大市民」を久しぶりに読んだ。
確かに、主人公がしゃべりまくりである。ただ、やはり面白い。

◆絵の変遷
元々ギャグ漫画を描いていたので、初期の絵はシンプルな描線だ。
だが年を経るごとに劇画調になり、非常にくどくなってくる。
ここに掲載されている「特命係長只野仁」に至っては、冒頭からくどい顔のおやじ2人のアップのコマが連続。しかも1人は側頭部のみ髪が残って、頭頂部はつるつるという強烈なはげ頭。その2人が、沈うつな表情で悲観的な人生観を語り合うという非常にキツイ内容。
しかし、1話読むと続けて読みたくなるように造られている。すごい漫画である。


うまくまとまらないのだが、気になったのはこんなところだ。
最初にさらっと読んだときは気付かなかったのだが、実は神がかり的なことを語っている。
この本は意外に“深い”。
色々思うことがあったのだが、現時点ではまとまらないので、このくらいにしておく。
更新していく予定。
なかなか不思議な本だ。

柳沢きみおは、漫画界における特異な作家だと改めて認識した。