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斎藤環のヤンキー論エッセイ「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」

以前、「ヤンキー文化論序説」という複数の人間による“ヤンキー論エッセイ集”を読み、筆者の一人である斎藤環の書くことに興味を抱いた。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20110830/1314720571
筆者はそこで、
“疎外の対象としてのヤンキー性でなく、われわれ自身にも内在されている「裡なるヤンキー性」に注目したい。”
として、
“個人の美意識にひそむヤンキー性。これは不良文化という言葉を使ってしまっては、ただちに霧散霧消してしまう儚い美学である。”
と書き、
ナンシー関が見出した問題意識の踏襲をこころざすものとして、「不良の美学」ならぬ「ヤンキーの美学」を研究していきたい”
としている。そしてヤンキー美学のサンプルを挙げている。
そして
“かつてあるところで読み衝撃を受けた「日本人の美意識を野放しにしておくと、結局は金閣寺ができてオシマイだなあ」という言葉にヤンキーの過剰さを追及する様式性に通じるものがあるとし、”
その「様式」を規定するのは「キャラクター」である。
と締めていた。
だが、その「キャラクター」については文字数も尽きたとして、語ることなしで論を終えていた。

その後「キャラクター精神分析」という著作を出したので、そちらを読もうとしたのだが、中断、読めずにいた。

今年になり「世界が土曜の夜の夢なら」が出たので、これで著者のヤンキー論の集大成かと思い期待して読んだ。

で、読んだ感想だが、ハードカバーというより新書で出すに相応しい内容という印象だった。
文字数もさしてなく、筆者が今までに書いてきたことをざっと俯瞰したものとなっている。
内容は濃いものではない。
詳論を期待していた分、肩透かしをくらった感じである。
しかも文字数がないので、語っていることに至るまでの思考の過程が省かれ、一方的に結論が語られるものとなっている。
筆者の文章を初めて読んだ人は「随分、乱暴な自論を一方的に書く人だ」と思う人もいるのではないだろうか。
まあ、エッセイとしてこんな見方もあるのかというレベルでは楽しく読めるかもしれないが。

目次は以下のようになっている。

第1章 なぜ「ヤンキー」か
第2章 アゲと気合
第3章 シャレとマジのリアリズム
第4章 相田みつおとジャニオタ
第5章 バッドテイストと白洲次郎
第6章 女性性と母なるアメリカ
第7章 ヤンキー先生と「逃げない夢」
第8章 「金八」問題とひきこもり支援
第9章 野郎は母性に帰る
第10章 土下座とポエム
第11章 特攻服と古事記
あとがき

あと気になった点がある。
この本における筆者のスタンスは「ヤンキー文化論序説」のときよりは“ヤンキー”に対して否定的なスタンスに立っているように思えた。
ここ数年ヤンキーについては語り続けてきて、もう“飽きた”というニュアンスも若干感じられる。文章にあまり“熱”を感じないのだ。

ただ、ヤンキー先生こと義家弘介長田百合子を取り上げた部分では、自身の仕事上の信念と絡むところもあるのだろうか、文章が熱を帯びる。
そのあたりがこの本での読みどころだろうか。

以下、本論からずれるが読んでいて気になった点。

◆この本、文中の言葉(用語)について各章ごとにかなり多くの「参考1」「参考2」とナンバリングされた「注」がつくのだが、ジョン・ボーナムについての注には違和感を覚えた。
ジョン・ボーナムはロックで考えられるドラムパターンは彼が生前に叩き尽くしたといわれるほどの名ドラマー”だそうだ。これはまったく参考にない。というか誤解されていまう。
普通“スネアの抜けの音に特徴のある、スケール感あるビートを叩いたパワフルなドラマー”とでも書くのでは。

◆この本のタイトルは「世界が土曜の夜の夢なら」と“ヤンキー漫画”の世界観を描いているようなものになっているが、ヤンキーにシンパシーを寄せている“熱い”言説はまったくない。
むしろ逆である。
なぜこのタイトルにしたのか不思議だ。