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いましろたかしの漫画「デメキング 完結版」

デメキング 完結版

デメキング 完結版

会社にいるいましろたかし好きの人間が貸してくれたので読んでみた。
いましろの漫画は「タコポン」「釣れんボーイ」などいくつかは読んでいる。

1991年に「ビジネスジャンプ」で連載されていたものだが、実質上、打ち切りになった作品のようだ。
キャリア的には、もはや、初期の作品といっていいと思う。
何回か単行本化され、一部では高い評価を得ていたようだ。
今回の作品は結末を加えた「完結編」となっている。

オビには

峯田和伸氏「誰か、はやくこの天才を助けてやれ!」
浦沢直樹氏「いましろさんの大傑作。面白い。比類なき面白さ。」

の文字。

浦沢直樹は巻末の解説で「20世紀少年」との不思議な共通点を語っている。

で、読んでみた感想なのだが、魅力はあるがなんとも中途半端な作品だった。

話としてはこんな感じだろうか。
1970年前後の四国の田舎町。
「なんか、すごいことをしたい」と思いつつも、鬱屈した青春を送っている青年が、ある日海岸で、未来の光景を幻視する。
そこでは巨大な怪獣デメキングが東京を破壊しつくしていた。
そして「塾長」と呼ばれる年老いた自分自身が、教え子の少年を救おうとデメキングと呼ばれる怪獣に立ち向かっている(ようだった)。
その光景が忘れられない青年は東京に向かう。
そして怪獣が到来する“平成”という時代を待って1970年代前半の東京で、またもや鬱屈した生活を送ることになる。
ここで打ち切りとなり終了。

ウィキペディアの記述を見ると、いましろは、原作者として組んだことのある狩撫麻礼から“「平成のつげ義春」と呼ばれる”とある。
作風からすると、つげ義春というのはちょっと強引ではある。
だが、物語の展開で読ませる“ストーリー系”か、それとも作品の味わいで読ませる“表現系”か、でいえば両者ともに、表現系という共通点はあるのかもしれない。

この作品自体は打ち切りになったことで、妙な伏線めいた所が解消されなかったため、読み手の想像を誘うところがあり、さらに作風の醸し出す独特の風情もあいまって、一部の人たちを魅了し、評価を高めたように思える。

というところで、“完結版”ということで復刊になったのだが、描き足した数ページの完結させる部分がなんとも酷いというか、潔いというか、この作家らしい、また好事家の興味をそそるようなものになっている。

巻末には作者への突っ込んだインタビューもあり、言葉足らずなままに終わった作品について作者の意図を補足するものとなっている。そして自作についての思い、作品の評価に対するジレンマも語っている。

結論としては、
“ストーリー系”の漫画家にはなれなかったということを作家自身が認識した作品、ということになるのだろう。
だが、いましろは、自分の漫画が“表現系”の「詩」と理解されることにも甘んじられないというジレンマを抱えている。
なんとも、やっかいだ。

「『物語』をやりたかったんです。でもそれが全然できないってことを再認識させられた作品なんです」(P260)
「漫画ってキオスクに売ってるものなわけですよ。短歌とか俳句、詩は売ってないわけです。けっして詩集が悪いとは思わないけど、俺は金にならないことはやりたくないんです。でも、そのくせ俺の漫画は詩のような扱いになってしまっている。そういう状況にイラつくんです。『クリエイター系ですよね』とか『いましろさんは純文学だから』とか言われちゃうと」(P260)

結局、こういう作家なので、このような未完の作品が逆に作家の魅力を発揮するものになっているのかもしれない。


高く評価もされていた漫画のようだが、なんとも中途半端な作品である。そしてそこが魅力なのだろう。