見て読んで聴いて書く

映像、書物、音楽などについての感想

吉田大八監督、神木隆之介出演の映画「桐島、部活やめるってよ」

文春のコラムで小林信彦が誉めていた映画。会社の映画好きの人間も評価していたので見てみることにした。原作小説は読んでいない。

非常によかった。
高校を舞台にした群像劇として画期的といえる面白い作品に仕上がっていると思う。
あまりによかったので、月刊シナリオ9月号を入手、監督・脚本の吉田大八インタビューと彼の書いた脚本も読んでみた。

シナリオ 2012年 09月号 [雑誌]

シナリオ 2012年 09月号 [雑誌]

読んで、さらに感心した。
色々思うところがありすぎて簡単に書けないのだが、とりあえず思いつくところから書く。

この映画、比較的珍しい手法を使っている。
高校2年の秋のある日の校内での同じ時間が、それぞれの登場人物が経験する時間として何度も繰り返される構造となっているのだ。
金曜日の学校での出来事が4回、4人の登場人物の視点で繰り返される、みたいな。
あまり多く使われる手法ではない。失敗すると映画のリズムをうまく作ることができなくなる。
だが、映画ではこの手法を使ったことがギミック以上の大きな効果をあげ、作品の面白さ、深みを出している。

ちなみに、原作小説も何名かの登場人物から見た世界を○○編として構成した複眼的な作品となっているようだ。だが、まだ読んでいないのでなんともいえない。後日読む予定。

高校を舞台にした群像劇の秀作というと、吉田秋生の漫画を映画化した’90年の「櫻の園」が思い浮かぶ。
ただ、あちらは女子高の世界だが、こっちは公立校のクラス・ヒエラルキーを描いた作品になっているのが興味深い(厳密にはクラスはまたがるのだが、ここではクラス・ヒエラルキーとする)。
繰り返しによる複眼的視点とそれに絡むクラス内ヒエラルキーを描いているのがこの作品のポイントだ。

この映画に登場する主なキャラクターをグループ分けして、クラス内ヒエラルキーに配してみるとこんな感じだろうか。

◆運動ができて、我が物顔で生きる自由人的な帰宅部男子、押しも強く化粧にも気を配り見栄えもいい帰宅部女子
ヒエラルキー上位

◆バレー部男子、バドミントン部女子、吹奏楽部女子
ヒエラルキー中位

◆運動が苦手でコミュニケーション能力にも欠ける映画部男子
ヒエラルキー下位

この作品では最も知名度が高くクレジットとして主演になっているのは神木隆之介。実は彼はここではヒエラルキー的には下位の、ちょっと情けない映画オタクを演じている。また、キャスト順では2位にくる橋本愛はバドミントン部女子。
2人ともどんと前に出た主演といった位置づけではなく、上記のヒエラルキーそれぞれに位置するキャラクターが並列的に登場、それぞれの思いが絡みあう群像劇となっている。

学校という空間で、自然発生的にヒエラルキーが生まれるというのはおそらく今も昔も変わらないと思う。

会社ともなれば、組織、業務上での制度としてのはっきりしたヒエラルキーがすでにあり、社員はそれに従う。だが、学校の場合はそういった強制的なものはない。
結果、クラス内での色々な要素の絡み合った力関係で、漠然としたグループでの棲み分けとヒエラルキーが生じる。

ヒエラルキーがどう決まるのか、思いつくまま以下に挙げてみる。

▼スポーツができて、コミュニケーション能力にたけ、押しも強い人間がヒエラルキー上位に位置し、スポーツが苦手で人とのコミュニケーションが苦手で、弱気な人間がヒエラルキー下位に位置しがちである。
▼価値観は多数派で、個性を出すためそれにちょっとひねりを利かせたものを持っているくらいがヒエラルキー上位に位置するのには好ましい。マイナー趣味はオタクと解される少数派なので好ましくない。
▼ルックスはよくスタイルがいい方が好ましい。背は低いより高い方が。
▼勉強はできたほうがいいが、それよりも対人交渉における機知に富んでいるほうが、頭のよさとして好ましい。

ほかにも色々あると思うが、そんな要素が絡み合ってクラス内での序列が生まれているのではないだろうか。概して、スポーツができて押しが強い人間が上位に位置し、オタク、スポーツ音痴、弱気な人間は下位に位置するのは今も昔も同じだろう。

で、この映画に話を戻す。

すでに知られていることだが、この映画、タイトルに“桐島”とあるのだが、桐島は映画にはまったく登場しない。

桐島はバレー部に所属するヒエラルキー上位に位置する人間であることが、登場人物の人間関係、セリフで分かる。
そして、その桐島が部活を辞めたという“事件”が生み出す波紋を、体育会系、帰宅部、映画部それぞれのキャラクターを通して繰り返し描かれているのだ。
学校という空間がこの手法に非常にうまくハマっている。大きな役小さな役、さまざまなキャラクターが立体的に描かれ、それぞれの悩みや苛立ちがうまく表現され、個性・魅力を放っている。

とはいえ群像劇ではあるが、ストーリー上の軸といえる(ように私には思えた)のは2人。

東出昌大演じる菊池宏樹。練習に出なくなり、辞めかけている才能ある野球部部員。スポーツ万能で桐島の親友でもある。ヒエラルキー上位にいるカッコいい男子生徒。ちなみに菊池は身長189cm。

神木隆之介演じる映画オタクでスポーツがまったく苦手なさえない生徒・前田涼也。
映画部部長として、もっさりとしたちょっと気持ち悪い連中の中に溶け込んでいるヒエラルキー下位の映画オタク。神木の身長は不明だが、170cm弱ぐらいではないだろうか。

並んで立つと大人と子どもという感じである。
クラスの棲み分け、ヒエラルキーからいうと、住む世界の違う2人が、ラスト、学校の屋上で思わぬ交流をするというシーンが面白くも心を打つ。

監督はやはり、映画オタクの前田に感情移入していたと思える。

シーンとして最大の見せ場は屋上でのクライマックス。
映画部の仲間と屋上でゾンビ映画を撮っている前田が、駆け上がってきたヒエラルキー上位の連中に、撮影を無茶苦茶にされ、怒りを爆発させる。ゾンビ姿の部員が彼らにゾンビのようにわらわらと押し寄せ、それを前田がカメラを通して“ゾンビ映画”として幻視するシーンは、個人的には非常に楽しく見ることのできる場面だった。
さらにその映像に、階下の音楽室で吹奏楽部が演奏するワーグナーの「ローエングリーン」の「エルザの大聖堂への行列」の音楽がかぶるという仕掛け。
すごいセンスを感じるシーンだった。
妄想のゾンビ映画に壮麗なワーグナーの音楽!

私はこのシーン、「ゾンピの反乱?」という帰宅部女子のセリフから、アメリカ映画「ナーズの復讐」を思い出してしまった。
この映画、体育会系の学生(ジョックスと呼ばれる)に迫害されているオタク、ナーズがコンピューターを駆使してジョックスに復讐していくという話。

アメリカの映画だと、いわゆるナード(ウィキペディアでは“豊富な知識を保持する社会的内向な者”。オタクも含む)が登場する青春映画はかなりあるが、日本映画ではあまり見かけない気がする。
ウィキペディアのナードの定義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89
そういった意味でもこの映画、非常に興味深い映画だ。

この映画を見て面白かった人には、インタビューの脚本が載った月刊シナリオ9月号を読んでみることを強く勧めます。

文章がとっちらかっているので、小説も読んでみて、また更新するつもり。