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鶴見済「脱資本主義宣言 グローバル経済が蝕む暮らし」

脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし

脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし

鶴見済の書いた本を読むのは初めて。
雑誌に書いていた原稿は何度か読んだことはある。

以下、読んだ感想メモ。

“グローバル経済が蝕む暮らし”とタイトルにあるように、
著者がここで主張しているのは、「大企業」「資本家」「経済界」と呼ばれるものの弊害についてである。

著者は、前口上にあたる「はじめに」で、現代資本主義社会における“浪費と搾取”についてこう語る。

ちょっと長いが引用させてもらう。
「北」は先進国、「南」は発展途上国のことである。

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「経済のため」についてもう少し説明しよう。
本文でも繰り返し述べているとおり、我々の住む「北」の国々での浪費は、「南」の人々と自然界から富を奪うことによって成り立っていると言える。
「南」の貧困と環境破壊はある意味で、この過剰な生産や浪費の「しわ寄せ」なのだ。
けれども、自分たちの食べ物や着る物がどんなふうに作られているか知らされていない現状では、それに気づけるはずもない。
悪いのは「北」の我々全員だ、という意見は多いし、確かにそれは間違っていない。
けれども本書ではその立場は取っていない。
「北」のなかにも人に浪費をさせて儲けている人と、浪費をさせられている人がいる。
搾取をしている人と、されている人がいる。
「北」でも貧富の格差が開き、浪費どころではないカネのない人も増えている。その浪費をさせ、搾取をしている側を問題にするべきではないだろうか?
彼らを「大企業」とも「資本家」とも「経済界」とも、呼んでもいい。
彼らのネットワークは「北」「南」の区別なく世界中に広がり、政治家や官僚とつながって、社会の上に居座っている。彼らが「1パーセント」であり、我々が「99パーセント」だ。
「北」であれ「南」であれ、彼らの被害にあっている我々が皆で文句を言い、彼らに居座っている場所からおりてもらおう、そうやって問題を解決しよう、というのが本書の基本的な立場だ。(P10〜P 11)

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以下、本文では20世紀後半から飛躍的に進んだ経済のグローバル化、そして新自由主義と呼ばれる規制緩和が「大企業」による“浪費と搾取”を徹底的に推し進めたことを、具体的な生産物、産業について解説していく。

扱われる項目は衣料、原発、ゴミ、コーヒー、スポーツビジネス、自動販売機、飲料用のアルミ缶、自動車、日本人のパン食、タバコ、穀物、食用肉などなど多岐にわたる。

著者は各産業のそれぞれの項目の異常な量的推移をグラフを使い解説していく。
その検証ぶりは簡潔、明快で非常にわかりやすい。
新自由主義経済の下、「北」の大資本は「南」からさまざまな方法で搾取を行い、その影響は貧富の差を拡大させ、地球環境に影響を与えていることが各産業について語られる。
私が読んだ印象では、その解説について、こじつけめいた作為的なものはほとんど感じられなかった。おおむね正しいといってよい見解なのではないだろうか。
分かりやすすぎて怖いくらいである。

図書館で入手できるような公的といえるデータでも、観測点を決めることでこれだけのことが読み取れるのだ。データに基づく著者の検証・解説ぶりに感心した。

これをもっとゴシップ的にすれば、“闇の支配者による世界経済のコントロール”といったベンジャミン・フルフォード氏あたりの“陰謀論”まで行ってしまうのだろうが、さすがにこの本は良識的な範囲でおさめている。

日本で漫然と暮らしているだけでは見えてこない“浪費と搾取”の構造が、誰にでもわかるように書いてある良書かもしれない。

ただ、読み終えての個人的な感想となると、全面的に共感することができず、釈然としない思いも残る。

解説、分析については、おおむね納得できる面はある。ただ、その意味づけである。

この本では「北」が加害者、「南」が被害者という従来の構図に修正を加え、
「北」の1%が加害者、残りすべてが被害者という見解で文章が展開されている。

だが、加害者・被害者の分け方はそんなに明快にできるのだろうか?
そのことについては、読んでいて疑問を抱く人もいるはずだ。

・貧しい環境で育ったが、成績が優秀だったことから大企業で働き、その後役員・経営者になった人間は被害者から加害者になったのか?
・搾取されている「南」の国では、生活水準はすべての面において劣悪なものになったのか? 恩恵を受けた面もあるのではないか?
・搾取するという1%は、陰謀論の“闇の支配者”のように大多数の人間をだまし、利用しようとして策を凝らしている“悪”なのだろうか?
・日本人が「南」に対する加害者であることに気付いても、現状の経済システムで暮らしている限り、加害者でいることから逃れることはできないのではないか?

などなど読んでいて漫然と思った。
要は“敵”の姿は明快にはできないと言うことなのだと思う。
“敵”は外にもあるし自分の中にもあるのではないか。

また、“グローバル経済が蝕む暮らし”に対してどうするのかという“対応”については説得力に欠け、違和感を感じる部分もあった。
著者はこの本の「コラム 反抗の仕方」という部分で、行動の例として“デモ” “宮下公園ナイキ化反対運動” “素人農業”などを紹介している。
私自身はデモは別として“宮下公園ナイキ化反対運動”については違和感を覚えた(ここではその反対運動の内容説明は省く)。
また“素人農業”については、個々の人間の内面にとっては意義深いものになる可能性はあるが、産業というレベルで見るとあまりにささやかなものであるので、「反抗の仕方」という面で扱うべきものではないのではないかと思った。

ただ、著者もこの“浪費と搾取”がはびこる世界にどう身を処していくかについては、心もとないことは吐露している。

例えば自動販売機の過剰配置と莫大な缶製造についての一節である。
地球レベルでの大いなる無駄、環境破壊と搾取が生まれていることを著者はなげくが、一方でこんなことも言う。

“もちろん自分も缶容器を使い捨てていないわけではない。缶ジュースや缶コーヒーはまず飲まないが、この国で缶ビールを飲まずにいることはとても難しい”(P88)

“缶ビールを飲まずにいることはとても難しい”
はないだろ! と思わず笑ってしまった。
だが、この言葉、個人の実経験に即して書かれている言葉なので、読んだときにはちょっと笑ってしまったが、こういう文章を読み、ちょっと安心した。

声高に自らの無謬性を主張するようとする人であれば、こんなことは書かない。

そういう意味では“信用できる本”という気がした。個人的な見解だが。
「おわりに」で書かれている部分は、そんな現状をざっくばらんに語っていて、その部分ついては共感はした。

ただ、信じやすいナイーブな“若者”が教条的にこういう本を読んで信奉してしまうことが、ありそうでちょっと怖い。
現実に、書評と称したそんな作文を雑誌でも見た。


とりあえず、以上。
頭の中で整理しきれていないので、また読み返したときに、更新したい。