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三浦しをん「秘密の花園」

秘密の花園 (新潮文庫)

秘密の花園 (新潮文庫)

読み始めて6冊目となる、三浦しをんの小説単行本。

感想をつらつらと書く。

現在、デビュー作から発表順に読み進めている。
今作は彼女にとって4作目となる作品。
マガジンハウスから2002年3月に発行されていた。
今回読んだのは2004年に出た新潮文庫版。

内容は3篇の連作中編集だった。

カトリック系の女子高に通うタイプの違う那由多、淑子、翠という3人の少女が3編それぞれの主人公。
3編を通して読むと、友人である3人の関係、交感、相手に届かないそれぞれの思い、すれ違いが浮かび上がる構成となっている。各話についてのストーリー説明はここでは省く。

今まで読んだ作品では、男2人がメインキャラとなる“バディもの”(と言っていいのか確信は持てないのだが)が多かったが、今回は初めて女同士の世界を描いている。そして、一番“文学的”な作品となっている。

何がどうしてどうなる、という話ではない。
3人の少女の1人は失踪するが、その後の行方はわからないままだし、彼女と関係をもった国語教師がどうなるかも描かれていない。

そういう作品なのである。

あとがきにもあるように、良質な少女漫画を読み終えたような気分になった。特に翠のキャラが興味深かった。

実は個人的には、現時点で今までに読んだ三浦しをんの作品の中で、一番気に入ったかも知れない。

読み終えた後に、ウェブ上でのレビュー、感想などを軽く眺めたのだが、「若書き」「まだ文章は拙い」などと書いている人がいた。

それは違うような気がする。
この作家は“書く”ことにおいては天賦の才能を持っている人だと思う。それも多分ずば抜けたものを。
そして、“書く”という行為に非常に意識的な人でもある。
デビューからの3作を続けて読めばわかるが、作品ごとのジャンル、文章のトーンが全く違う。3作ごとに文章スタイルを変えて書き上げている。
20代半ばにして、たった2年で違ったスタイルの長編を3作発表している彼女に、「若書き」という言葉は適さないだろう。ただ、スロースターター気味の作品もあるような気もするが。

おそらく「若書き」「拙い」と誤解されるのは、この作品が“青い”作品だからだ。
著者は、あえて“青さ”を感じる文章スタイルを意識して書いている。と思える。

この小説は「洪水のあとに」「地下を照らす光」「廃園の花守りは唄う」の3編から成っているが、第1篇の「洪水のあとに」はこんな風に始まっている。

体を覆っていた不快な粘液が洗い流されていく。
孵化したばかりのヒヨコがねっとりと濡れていると知ったとき、少し失望したことを覚えている。あの硬質な殻の中から出てくるヒヨコですら、生物としての湿り気と無縁ではいられないのだ。
髪の毛を拭きながら、廊下の電気のスイッチに手を伸ばした。電気は点かなかった。何度か試したけれど、廊下は暗いままだ。洗面所から漏れる四角く白い光の中で、私の影が壁にぶつかって奇妙な形にねじ曲がっていた。
最後にこの電球を替えたのは母だった。一時退院してきた母は、家の中の細々したことを点検した。テレビの上に積もった埃を拭き、つまり気味だった台所の配水管に液体状の薬品を流し入れ、父のワイシャツにアイロンをかけ直した。そして、「なゆちゃんとお父さんは、私がいないと本当に駄目なんだから」と言って笑った。私も、「そうだね」と笑ったが、それは嘘だった。父と私は、母がいない生活にもそれなりに慣れ、居心地よく日々を送っていた。

最初の段落では具体的なことは読み取れないイメージを喚起する言葉を唐突に連ね、3段落目からは語尾を“〜た。”で締める文章をずっと続けている。

ブツブツと途切れるギクシャクとした文章である。読みづらいというほどでもないが、“親切”な文章ではない。今まで書いていたような流麗ですらすらと読める文ではない。
これは意識的なものだと思う。

カバー裏表紙の紹介文の最後に“記念碑的青春小説”という言葉がある。

横浜のカトリック中高一貫のお嬢さん学校である横浜雙葉を卒業した著者にとって、この小説はまだ遠い過去ではない、自身のナイーブだった時代を回想(妄想も含め)したもので、それを“文学”として仕上げた作品ということになるように思えた。

そして、この作品は、著者が初めて“性”について書いた小説となっている。非常に心打たれる部分もあり、興味深い点も多かった。私は男性だが、それなりに共感できた。
この点については、これ以降の作品を読んだうえで、思うところを書いてみたいと思う。

ちなみにこの小説、なぜか先月読んだ柚木麻子の連作中編集「終点のあの子」とシチュエーション、構成が似ている。
キリスト教系の中高一貫の女子高、複数の登場人物を主人公にした中編集という設定。少女漫画を思わせる表現手法、ストーリー。
この2作、似ている分、両者の違いが印象に残った。

終点のあの子 (文春文庫)

終点のあの子 (文春文庫)

↓「終点のあの子」を読んだ感想メモ
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120918/1347933631
2つをくらべると作品としての仕上がりはかなり違う。

柚木麻子はデビュー作であり、三浦しをんは4冊目の単行本。

文章のイメージ喚起力、キャラクターの奥行きと魅力、そして文章の表現力は正直いって格段に三浦しをんが上である。比較してはかわいそうなくらい。

そして何よりも、作品で描かれる少女の抱く“諦観”“絶望”の奥深さがあまりに違う。

「終点のあの子」との比較はこのへんにしておく。

“記念碑的青春小説”という言葉が相応しい、引き込まれる魅力のある作品であり非常に興味深い作品だった。
今まで読んだものの中では著者の内面が一番発露されているはずだ。

主人公の一人の名前“那由他”が10の39乗を表す数の単位ということは知りませんでした。恥ずかしい。しかも、このタイトルの少女漫画があるのですね。それも知りませんでした。

巻末の引用文献にハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」があった。
多分“母上に穴が一つ少なかったらよかったのにと思う”(P41)のことだと思った。確認したらこれは当たっていた。ちなみに「ハムレットマシーン」ではこの後に“そうしたら、私も生まれないで済んだのに。”というセリフが続く。

ただ、ハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」なんて一般的な三浦しをんの読者は知らないだろう。私は演劇には疎いが、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンがこの作品のサントラを手掛けていたということや、der zibetのISSAYがこの名前のユニットで活動していたことで、たまたまこの戯曲のことは知っていた。こんな引用をすることなど、この作品には若干のペダントリーも感じる。

名前のルビが初めになく、途中でいきなり入っている理由はよくわからないが、何か意図があるのだろうか? そんなことまで考えてしまった。

もしかしたら、3作のかっちりとした(誰でも読める)長編を仕上げた著者が、一区切りとして自分を振り返る意味もあり、“センチメンタルな”文学ものを書いたのかもしれない。
裏カバーに描かれていたように“記念碑”的な意味で。
商業小説でやっていこうとしたら1作目からこれは書けないだろう。

三浦しをんは、読めば読むほど感心するところの多い作家だ。

きりがないのでとりあえず、このあたりで終える。
読み返して、また更新するかもしれない。