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アーシュラ・K・ル=グウィン「こわれた腕輪 ゲド戦記2」

こわれた腕環―ゲド戦記 2

こわれた腕環―ゲド戦記 2

すでに「ゲド戦記」シリーズ全6巻を読み終えた。
色々と思うこともあったので、解説書の類も読むことにした。
現時点で読んだものは以下のとおり。

◆第5巻「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語―ゲド戦記5」に収録されている作者による解説
◆「『ゲド戦記』の世界」岩波ブックレット 清水真砂子
◆「僕たちの好きなゲド戦記 別冊宝島
ル=グウィンが’92年の8月に行ったオックスフェード大学での講演「『ゲド戦記』を“生きなおす”」(雑誌「へるめす45号」収録)。講演タイトルの原題は「Earthsea Revisioned」。“Revisioned”という言葉が非常に興味深い。

というところで現時点での私なりの理解をメモで残す。

ざっくりとした視点で見ると「ゲド戦記」全6巻は前半の3巻、後半の3巻で大きく2つに分けることができる小説のようだ。
発表年度でいえば前半3作は’68年、’71年、’72年。
そして後半3作については、第4作が’90年、第5、第6作が’01年に発表されている。前半3作とは時間的にかなり隔たりがある。

さらに発表時期で細かく分ければ第1〜3作、第4作、第5・6作の3つに分けてもいいのかもしれないが、ここではそこまでこだわらず大きく2つに分けて考えて考えることにする。

どうやら作者の言葉などから理解するに、前半の3作がいわゆる伝統的な枠組みに基づいたファンタジー(著者によると“ヒロイック・ファンタジー”)となっているようだ。
3巻を俯瞰するとこんな感じだろうか。

第1巻「影との戦い」 才能はあるが高慢なところもある少年ゲドの成長物語
第2巻「こわれた腕環」 囚われの少女テナーの自己回復と解放の物語
第3巻「さいはての島へ」 ゲドの支援を得て王子アレンが王になるまでの冒険と戦いの物語

多義的で高度の象徴性に富む物語なので、この説明だと身も蓋もないものとなってしまう。だが、この3作はゲドという魔法使いを主軸とした物語であること。そして各巻のメインキャラクターとなるのは、第1作はゲド自身、第2作はテナー、第3作はアレンとなっていることについて異論を抱く人はいないと思う。

ちなみに「僕たちの好きなゲド戦記 別冊宝島」に寄稿している中村うさぎ氏によるとこの3巻は以下のように解説されている。

僕たちの好きなゲド戦記

僕たちの好きなゲド戦記

そう、この「ゲド戦記」が全シリーズを通して訴えているのは、「受け入れよ」ということである。人は生きていくうえで、さまざまな「受け容れがたき存在」を受け容れていかなくてはならない。「ゲド戦記」シリーズは、我々が次々に出会う「受け容れがたき存在」を、各話の主人公たちが順を追って受け容れていく物語だ。
たとえば第一巻の「影との戦い」は、若き魔法使いゲドが「己」を受け容れる軌跡を語る。我々がもっとも受け容れがたく、しかも、もっとも受け容れなくてはならない存在こそ「己」であるからだ。そして第二巻の「こわれた腕輪」ではテナーという少女が「他者」を受け容れる過程が語られる。「己」を受け容れた我々が、次に受け容れるべきは「他者」なのだ。と著者のアーシュラ・ル=グウィンは言っているのである。本当に、そのとおりだ。我々の世界は、「己」だけでは完成しない。「他者」という光が、「己」の闇を照らし出してくれるのだ。
では「己」を受け容れ、「他者」を受け容れた人間は、次に何を受け容れなくてはならないのか。「死」である。「死」を受け容れて初めて、我々の「生」には意味が生じる。「死」のない「生」など、だらだらと続く終わりなき日常にすぎないのだ。
第三巻の「さいはての島へ」は、アレン王子とゲドが喪われた「生」を求めて「死」の世界へと旅する物語である。P38〜P39

中村氏によれば“受け容れる”ということが根底にある小説ということになるのだ。“受け容れる”ことが重要なテーマになっているのは間違いないのだが、違うポイントを重視する読者もいると思える。読み手の重視する観点でテーマや見え方が変わってくるのだ。
多義性に富み、さらに複数のテーマが絡み合っているために一言で説明すると「それはそうだけど何か違うのでは」と思うことになる。
読み手しだいでこのゲド戦記は重要なテーマが変わってくる。そしてそれぞれの読み方は間違いではないのだ。
そこがこの小説の極めて優れている点だと思う。

ちなみにシリーズ作は作品が進むごとに文体が変わっていく。
第1作は古い神話のような寡黙で色調の乏しい叙事的な文体。
それが次第に鮮やかな色合いの叙情的な小説の文体(これは第1作を基準としてである)に変化していく。6巻全体を通して、巻が進むごとに会話文が増えていく印象があった(確認したわけではないが)。
第2作の今作、テナーはゲドと出会い、復元させたエレス・アクベの腕輪とともに墓所から脱出する。前半の墓所でのテナーの描写はまだまだ寡黙な文体である。ゲドと出会い、世界は動き出す感じの文章だ。ちなみにゲドが登場するのはP103と中盤になってから。随分ページが進んでからである。
第3作は冒険物語。ゲドとアレンはローク島から“はてみ丸”で出航、広大なアースシーの世界の南半分を、遠い南の島から西の果てまで大航海する。第1巻からの寡黙な文体からすると色彩感に富む躍動感ある文章となっている。ただ、ゲドは相変わらず寡黙で禁欲的ではあるが。
第4巻以降は、あまりに革新的な内容なので、ここでは省き、4巻以降の感想メモで書くことにしたい。
そこでは更新された(Revisioned)“ゲド戦記”の世界が展開している。そのことにも驚いた。第4巻以降があることで「ゲド戦記」は画期的なファンタジーとなっているのではないかと私には思える。

「こわれた指輪」の感想に至るまでに色々と書きすぎてしまった。この辺にして第2巻「こわれた指輪」に関して、今の時点での私の感想メモを残す。

原題は「The Tombs of Atuan」。
“アチュアンの墓所”である。

岩波少年文庫の裏カバーの解説にはこう書かれてある。

ゲドが〈影〉と戦ってから数年後、アースシーの世界では、島々の間に争いが絶えない。ゲドは、平和をもたらす力をもつエレス・アクベの腕輪を求めて、アチュアンの墓所へおもむき、暗黒の地下迷宮を守る大巫女の少女アルハと出会う。

この作品におけるアルハ(テナー)は姫ではないが、広義の意味で、“とらわれの姫”としていいのだろう。
宮崎駿ルパン三世 カリオストロの城」、そして新城カズマ「物語工学論」での“塔の中の姫君”などを読んでいて連想した。

物語工学論

物語工学論

6巻まとめて読んだので、実はこの第2巻ついては細部での記憶は薄れてきている。
将来、また「ゲド戦記」は読むことがあると思うので、その際にまた更新したい。