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映像、書物、音楽などについての感想

キース・ジャレットのソロ・ピアノ日本公演集『サンベア・コンサート』

サンベア・コンサート

サンベア・コンサート

Sun Bear Concerts

Sun Bear Concerts

キース・ジャレットの『サンベア・コンサート』は、尋常でないボリュームのアルバムだ。
LPで発表されたときは10枚組、CDで出たときは6枚組。通して聴くと7時間近くかかるという長大な作品である。
この約7時間、展開するのはすべてソロ・ピアノによるインプロヴィゼーション、完全即興演奏である。
空前絶後のアルバムといっていいだろう。
興味はあったのだが尋常ではないボリューム、購入価格から、なかなか手が出なかった。

2012年の2月に稲岡邦彌の「増補改訂版 ECMの真実」を読んだことを契機に『サンベア・コンサート』を聴くことを決めた。
稲岡氏はECMレーベルの日本でのマネジャーを担当していた人物。
キースの日本公演の記録を収めた『サンベア・コンサート』のツアーにも同行した。制作過程について詳しい事情がこの本には書かれてある。

増補改訂版 ECMの真実

増補改訂版 ECMの真実

「増補改訂版 ECMの真実」を読んだ感想メモ

聴き始めてから約2年、やっとアルバムの全体像がつかめてきたので感想を書く事にする。
その間にキースのソロ、アメリカン・カルテット、ヨーロピアン・カルテットもほとんど音源を入手した。
書籍の「キース・ジャレット 人と音楽」(イアン・カー著)、「キース・ジャレット 音楽のすべてを語る」(編集・山下邦彦)も読んだ。

キース・ジャレット 人と音楽

キース・ジャレット 人と音楽

キース・ジャレット 音楽のすべてを語る (JAZZ LIFE BOOKS)

キース・ジャレット 音楽のすべてを語る (JAZZ LIFE BOOKS)

改めてその飛びぬけた才能、特異性を思い知った。
今後、キース・ジャレットのカテゴリーを設けて、気になる作品について感想メモをつけていくことにしたい。
キースは私が唯一“天才に近い存在”と思うことのあるミュージシャンだ。
未だにその音楽を自分なりに捉えることができていない。
お気に入りのミュージャンというものは、アルバムのほとんどを何度も何度も聴き、ライブを見ていけば、自分なりに“こういうミュージシャンなんだ”的なイメージができるのだが、キースに関しては未だにそういったものができない。
しかも私は譜面は読めず、音楽理論的知識もない。
聴くジャンルとしてジャズは専門ではない。
正直、力足らずとは感じるが、書きながら考えることで、キースの音楽、特にピアノ・ソロの即興演奏について何か言語化できれはと思っている。


で、今回は『サンベア・コンサート』について。

『サンベア・コンサート』は’76年11月に行われた日本公演から5公演を収録している。
日本で行われたのは京都、福岡、大阪、名古屋、東京(2回)、横浜、札幌の全8公演。
収録しているのは京都(京都会館ホール)、大阪(サンケイホール)、名古屋(愛知文化講堂)、東京(中野サンプラザ)、札幌(厚生年金ホール)の5公演。
収録されている5公演は各2部構成。各おおよそ30〜40分の長さである。
各公演を1枚のCDに収め、残る1枚で札幌・東京・名古屋公演でのアンコールを収録、計6枚のCDとなっている。
計6時間43分34秒となる。
演奏については当然、音の差し替えなどは行っていない。
日本で開かれたソロ・ピアノ・コンサートそのまんま収めているドキュメントといってもいいかもしれない。しかも、それが即興演奏である。

ちなみにキースがソロ・ピアノ即興公演を始めたのは’72年。
途中、慢性疲労症候群CFS)による活動の中断など紆余曲折はあったが、現在も同様の公演を行っているので、その期間はもう40年以上になる。
今年2014年の5月には日本公演も控えている。
公演の数は知らないが期間を考えれば500回は超えているのではないだろうか。
もしかしたら1000回近いかもしれない。
さらにその記録としてのライブ・アルバムは12作品となる(数え間違えていたらすみません)。

ソロ・ピアノのインプロヴィゼーションの公演をこれだけ長期にわたって続け、これだけの量の記録をアルバムとして残したアーティストは、古今東西の歴史で彼1人だけだろう。
少なくとも広く国際的な支持を得て活躍している音楽家としては、彼が唯一の存在であることは間違いない。
灰野敬二が40年活動を続けているのとは、個人的に言わせてもらえばレベルが違う(彼は基本ギターですが)。
デレク・ベイリーというギタリストとも知名度、音楽の一般的訴求力においてスタンスが違うので比較はできないだろう。

そしてその即興の内容についてである。
恐るべきことに、完全即興でありながら、私は「あ、このフレーズ、あのアルバムで聴いたことある」みたいなことを感じることはない。
既存の曲のフレーズや、曲を再構築したものを連想させることは皆無だ(ただ違う意見の人もいます)。

その点、チック・コリアのECMから出た『チック・コリア・ソロ 』(’71年)2枚とはインプロヴィゼーションに対するスタンスが違う。

チック・コリア・ソロ Vol.1

チック・コリア・ソロ Vol.1

インプロヴィゼーションといいながらリターン・トゥ・フォーエヴァーでも演奏していた「サムタイム・アゴー」の有名なフレーズが入っているなど、“ストック・フレーズ”を引き出して演奏している感は否めない。
リターン・トゥ・フォーエヴァー

リターン・トゥ・フォーエヴァー

以下、「キース・ジャレット 音楽のすべてを語る」から、インプロヴィゼーションに関してのキースの言葉を並べさせてもらう。

キースはインプロヴィゼーションに関しては、
インプロヴィゼーションこそ、音楽の中で瞬間瞬間に生まれる現実にもっとも深くかかわる方法である」

と語る。
そして、
「まったくのゼロからその場で演奏している」
ということを強調している。

つまり演奏の前「どんな演奏をしよう、このフレーズで決めよう」などと準備することは一切せずに、演奏をするということだ。

そして意識とテクニックでコントロールする演奏を「メカニカル」なものとして、そうしたインプロヴァイザーを「眠った」と評する。そして、自分のインプロヴィゼーションは「容器」になることだと語っている。「容器」という表現は多分に哲学的ではあるので、ここでの説明は省き、ほかの機会で書いてみたい。

以下、上記の部分のコメント部分を抜粋する。

P25 聴き手としての人間にこれほど深いところで触れることができるのはインプロヴィゼーションにおいてだけだ。他のものはすべてある程度のへだたりがある。ある人間が、まったくのゼロからその場で演奏しているのを君が聴くということは、きみがその人間に触れているということだろう? どんな言葉よりずっと深い触れ合いだ。1音1音、すべての音がその場で、聴いている時に決定されて弾かれているのだから。その音は息づいている。楽譜に書かれていない。前もって考えてもいなかった音だから。「出ておいで!!」って出てくるようなものだからね(笑)」。インプロヴァイザーが眠った状態かどうかは即座にわかるはずだ。眠った状態にいる演奏家はメカニカルな判断を下す。つまり自分の身体で自分がコントロールできるものと、できないものを感じとり、そして行動に移す。メカニカルな判断というのは、この機械を動かすということ、つまりテープ・レコーダーのスイッチを押すみたいにね。そして自分の持っているストック・フレーズがいくつかあって、自動的にそれらが演奏し始める。機械のようにね。

P25 そうする狙いは、自分がやっていることを頭でコントロールしないことにある。「よし、それじゃあこうしよう、ああしよう」というようには決して考えない。次にどうつないでいくべきか、などと自問することは全くないんだ。音楽と聴衆についての意識はあるが、重要なのはすべてひとりでに浮かんでくるに任せること。考えることをせずに、適切な気持ちでステージに上がれば、その瞬間にぼくは容器になり、機械ではなくなる。

『サンベア・コンサート』に話を戻す。

実は聴き始めてからこのアルバムをまとめて聴く時間が取れず、さっぱり全体像がつかめなかった。
そこで毎晩、寝る前に各公演を聴くことにした。
明かりを消し、イヤホンで聴きながら眠るのである。
本当はスピーカーを通して聴きたかったが家庭の事情でイヤホンということになった。
結果、この2年間の多くの夜、寝る前に『サンベア・コンサート』を聴きながら眠りについた。

キース・ジャレット 人と音楽」(イアン・カー著)によるとこんな記述がある。

P178 『サン・ベア・コンサート』は豊かな音楽的パノラマを見せてくれる。それ以前のアルバムに比べて、いっそう新たな色彩と新たなリズムに富んでおり、音楽はめまぐるしく変わるのではなく、どちらかと言えば、徐々に発展していく傾向を見せている。(中略)アイヒャーは次のように述べている。「それには、いくらかミニマリスト的な傾向がある。[フィリップ・]グラスや[スティーブ・]ライヒなんかの……」。いくつかのパターンが反復され徐々に発展していくというようなミニマリスト的な傾向がいくらかあることは確かであり〜(以下略)


確かにミニマルミュージック的繰反復をへて、次第に曲が展開していくパターンがこのアルバムでは多い。

彼のソロ・ピアノ演奏については、その“曲調”“1曲の長さ”は年月とともに変わってきている。
初期は30分、40分に及ぶ演奏が当たり前だったが、病後のライブでは演奏は5分程度のコンパクトなものが中心となり、現代音楽風の曲も増えている。
ものすごくおおざっぱに言えば、年月を経るごとに、曲は短くなり、とっつきやすさは弱くなっている傾向にある。

『サンベア・コンサート』は、スタジオ録音の『ステアケース』('76年)に続く初期のソロ・ピアノ・アルバムである。

キース・ジャレット 人と音楽」では以下のような記述もある。

P177〜P178 『サン・ベア・コンサーツ』はジャレットの発展の重要な一段階における記念碑的レコードである。それは、『ケルン・コンサート』やブレーメンおねびローザンヌでのコンサートとは非常に異なっている。(中略)ジャレットの日本でのコンサートの並はずれた素晴らしさにはいくつかの理由がある。ひつには、これが長い中断のあとの最初のソロ・ツアーであったこと。またひとつには、彼が『ステアケイス』をレコーディングしてから6ヶ月目にあたり、そのスタジオ・アルバムの緊張感がそのままこれらのライブ演奏にみなぎり、張りつめたものにしていたこと。そして、彼がアメリカン・グループとの体験を通して、自分がひとりぼっちであることを再認識し、真剣にピアノの練習を開始したあとに行われたからでもあった。(中略)ジャレットはフランク・コンロイにこう語った。「これらはある意味で奇妙なコンサートだった。ぼくは普通は、演奏中にそれがどのくらい良いとか、ひどくまずいとかわかるものなんだが、日本ではそうじゃなかった。ぼくの頭の中には、ずっと奇妙な考えが渦巻いていた。ぼくは何度も何だかよくわからないままステージから退場したのだった。そしてしばらく憂鬱になったが、それは、コンサート後のぼくとしてはきわめて異例のことだった。だが、マンフレートはそのコンサートがよかったと判断した」

アマゾンなどのネットでのレビューを見ると、この作品については各公演に対する評価がまちまちである。札幌がいいという人がいれば、大阪がいいという人、名古屋が最高という人もいれば、深遠で謎めいた京都に惹かれるという人もいる。不思議なアルバムである。

このアルバム、『ケルン・コンサート』ほどではないが、比較的とっつきやすいアルバムである。だが、どの公演も“曲”として考えるとなにかとりとめがないのである。
そのあたりが、何度聴いてもアルバムの全体像が見えてこないところと関係しているのかもしれない。
キース自身のツボにはまったときに発するうめき声も非常に少ない。

「ECMの真実」を読むとキースは公演の前にひとりで散歩に出ていたという記述があった。
私自身、このアルバムを通して浮かんだイメージは、キースが日本の寂れた町並み(今から約37年前の日本である。ブックレットの写真から当時の日本の風景をうかがい知ることができる)、散歩道を物思いにふけりながら、ひとり歩いている姿である。
そんな彼の心象風景がとりとめもなく描かれる。
ほかのピアノ即興アルバムと比較すると『サンベア・コンサート』は、そんな内容に感じられた。
激情はないのだが、おだやかな心のうねりとキースの息遣いが感じられるアルバムだ。
夜、明かりを消して、横になって聴いていると、初めのフレーズの風景から、しばらくすると気が付かないうちにまったく違った思いもかけない風景が広がっている、そんな印象のアルバムだった。いつのまにこんなところまで来たんだろう、みたいな。

ヨーロッパ録音の『パリ・コンサート』('88)、『ラ・スカラ』('91)でのかっちりとした演奏とはちがった、比較的緩めでスケールの大きな心象風景、思念のうねりのようなものを感じた。
キースの時代、年齢による変化もあると思うが、日本という場所ではの緩さ、大らかさがこのアルバムの内容に反映したのかもしれない。
『ソロ・コンサーツ』(’73)での“天啓”としかいいようのない、“星が降ってくるような”ブレーメンでの演奏には至っていない。

ただ、すごいのは
京都が11月5日、
大阪が11月8日、
名古屋が11月12日、
東京が11月14日、
札幌が11月18日。
わずか2週間程度のツアーなのに、それぞれの公演がまったく違う壮大な心象風景を見せてくれることだ。
しかも電気楽器ではないピアノ1台を即興演奏で。
こんなミュージシャンはいないでしょう。

現時点では、私は『サンベア・コンサート』をこんな風にとらえている。
キース個人の当時の心象風景がとりとめもなく音楽的パノラマとして広がる音楽ドキュメント。


ちなみにこのアルバム、私の知っている範囲内でも都内でレンタル店、図書館に在庫はあります。