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映画「冬の小鳥」と、テレビドラマ「明日、ママがいない」

冬の小鳥 [DVD]

冬の小鳥 [DVD]

「冬の小鳥」を見ようと思ったのは、「ポエトリー アグネスの詩」の監督であるイ・チャンドンが製作に関わっていたことと、以前会社の同僚だったシネフィルの人間が勧めていたことからだ。

公式サイトにはこのような映画紹介の文章

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大好きな父に捨てられ、孤児となった、9歳のジニ
絶望にたった一人で向き合い、やがて新しい人生を歩み出す、
ひとりの少女の孤独な魂の旅−。
70年代の韓国を舞台に、俊英ウニー・ルコント監督が綴る珠玉の感動作

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監督・脚本のルコントは養子として韓国からフランスに渡った人物とのことで、その実体験が基になっているようだ。
どういう事情によるものかはよく知らないが、韓国から外国への養子縁組が多いということは何かで読んだ記憶がある。

で、見た感想メモ。

仏・韓国の合作となっているこの映画は、ハリウッド映画のドラマチックな展開ではなく、
どちらかといえばヨーロッパ系の映画にある描写の味わいに重きを置いた作品だった。

大好きな父親からだまされるようにして女子児童養護施設に置き去りにされた9歳の少女。
彼女が、そこで日々を過ごし、精神的な浮き沈みを経て、最後にそこから新しい世界に旅立っていく。
先の紹介文のままの内容だった。
その心象風景を淡々と味わい深く綴った作品だった。

感情の浮き沈みのあるさまざまな事件は起きる。だが、全ては通り過ぎていく。という感じである。
ハリウッド系映画にある作りこんだドラマのカタルシス、山を登っていくようなドラマ構成の作品ではなかった。

とはいえ、見ていて退屈することはなかった。
日本にも通じるところのある、70年代韓国のちょっと寂れた風景、その中で動き回る女の子たちの表情や動きに魅力があったからだ。
特に深い印象を残したのが主演の少女の表情。
オープニングのシーン。父親の運転する自転車に乗り、小さく口をあけながら楽しそうな表情で前を見つめる表情。
まぶしそうに大好きな父親を見上げる表情、
父に捨てられたことを認めたくはないが、受け入れざるを得なくなるに至るまでの不安と失望の表情、
親しくなった年長の少女がアメリカ人夫妻に貰われ去って行った時の怒りと絶望の表情。
そして何よりも私の心を打ったのがラストでの少女の表情だった。


信頼していた年長の少女が去り、裏切られた思いと失望で塞ぎこんでいた少女にフランス人夫妻から養子縁組みの話が来る。
夫妻の写真を見て、こんな年寄りは嫌だ、と言った少女。
だが、次のシーンは少女が車に乗って施設から旅立つ場面となる。直接面談はすることなく養子縁組みが決まったようである。
韓国の空港、飛行機を経て少女はフランスの空港に到着する。長いトンネルをくぐるような描写だ。
ヨーロッパ人の行き来するなか、搭乗ゲートに向かって歩いていく少女。
搭乗口には少女を待っていたフランス人の家族の姿。満面の笑顔で少女に手を振っている。
それに気付いた少女は、何ともいえない表情で前を見る。

“会えてとても嬉しいです”という表情ではない。
だが、心を閉ざした暗い表情でもない。
不安に満ちているが、見知らぬ世界で未来に向かって歩いていこうとする意志を感じさせる表情だ。
そして、その表情はどこか清々しい。

少女の変化を感じさせるとてもいい表情だった。

いい意味での佳作だった。
見てよかった。


ちなみに、テレビドラマの「明日、ママがいない」は、この映画をパクっているという指摘があったようだ。
私は「明日、ママがいない」は全話見たが、比較してそこにはパクリというほどのものはなかったと思う。
ネットで検索して該当するサイトをちらっと見てみた。
そこには「冬の小鳥」を“養護施設に預けられた少女がいじめに遭う”と説明しているものもあった。映画には特にいじめのシーンはない。映画のことを見もせず、ろくに調べることもなしに書いたものなのだろう。

映画からヒントを得たのかな、と思えたのは
(1)子供が施設の2階の窓から外にいる人々を見下ろすカット
(2)施設に長いこといる年の離れた年長の少女になんらかの障害がある(映画では、歩行が困難で足を引きづる。ドラマでは怪我で片目に障害があり眼帯をしている)
くらいだろうか。
(1)はドラマでは頻繁に使われているカットだった。

ついでに「明日、ママがいない」について。

「ポスト」というあだ名を使ったばかりに、結果的に過剰なバッシングにあったドラマだったという印象もあったので、忘れないうちに感想を残しておくことにする。

このドラマ一言でいえばこんな話と言えなくもない。

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親に捨てられ(失い)、児童擁護施設で暮らすことになった少女達が、
新しい親を見つけ(親と再び暮らすことになり)、
再び本来の名前を取り戻す。

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千と千尋の神隠し」のような話、と言えなくもないのだ。
これでいくと、三上博史演じる“魔王”は、湯婆婆である。
多分、このことは他の人も指摘しているのではないかと思う(確認していないが)。

ドラマの初め、語り手である少女・ドンキが「コガモの家」に引き取られるあたりの映像描写などはダーク・ファンタジーの趣で、私は「エンジェル ウォーズ」を連想してしまったくらいだ。

連続テレビドラマというものは細かいところではアラもあるし、腑に落ちないところも少なからずある。
だが、連続ドラマは作品世界と登場人物に魅力があれば、それだけでOKというところもあると思う。見ているとその世界に浸れるという楽しみだ。
「明日、ママがいない」は全体の構成や細かい部分での設定には腑に落ちないところはかなりあった。
さらに、バッシングの影響なのか、中盤以降、「あれ、あの人はどこに行ったの?」とか、“不幸の描写”が弱められ、音楽の力を借りて感動的にしようとする演出が若干目立ったことなど、違和感を抱いた点はいくつもあった。
ポストと交流した歩行困難の少女はドラマ全体に関わりそうな気がしたのだが……などなど。

とはいえ、養護施設の少女の友情物語、群像劇として、私はその世界を楽しむことができた。
芦田愛菜演じるポストのはすっぱな物言いも微笑ましいものがあった。

地上波のテレビ放送は、視聴者層が広く、影響力も強い。
そういう点から映画よりは、倫理的な規定が厳しいのは当然だと思う。
だが、言葉や表現は文脈しだいで、どうとでも取れるところがある。
ネット社会の影響で、全体の意図が見えないうちに、ディテールの描写が問題となり、全体の構成に影響を与えてしまう今回のようなとこはこれから増えていくのかもしれない。

三上博史もドラマの中でこのことについて熱演していたが、
なかなか難しい時代だなと思った。