見て読んで聴いて書く

映像、書物、音楽などについての感想

石原慎太郎「国家なる幻影 わが政治への反回想」続き

以下、メモと所感雑記 自分用メモとして
P147 著者が中心となっていた「日本の新しい世代の会」で三浦雄一郎を持ち上げようとしたが、同氏の奇行で擁立を断念。細川護熙を押し、当選させるが、著者の細川氏への評価は非常に低い。著者が何度も話すことで練り上げた選挙演説を勝手に使われた。しかもそれを自分の演説の前にされて困ったこともある。さきがけ代表の武村氏から細川氏の印象を聞かれ、著者は「あれは魚だ。痛覚をもっていない人間」と語った。
P187以降の「三島由紀夫からの公開状」は今までの中では一番読み応えのある章だった。筆者は三島が著者の将来の政治参加を予見していた文書に後に気付き、涙したこともあるという。
P193- 三島の予見したように日本社会が進んできたことを述べている。
「当時もすでに、以来ますますにだが日本人のほとんどはプチブル化し、自分個人の満足意以外に感心は払われず、そしてなお、敗戦後日本を統治したアメリカの占領政策は目に見えぬ形で実質依然として続いてい、日本人の下意識に培われた他力本願はますます増幅されてきた。福田和也氏が最近痛烈に指摘していたように、日本人のほとんどは肝心なことについてだけは自ら考えぬ幼稚な体たらくに堕落しきっている」
P195 現場を訪れた三島の師匠的存在である川端康成は三島の検視前の死後の状況を目前してショックを受け精神的にバランスを崩したのではと述べている。
P197 三島が「私の中の二十五年」で語った
「私はこれからの日本人に対して希望をつなぐことができない。このままいったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日増しに強くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」をそのまま引用。
そして「といって氏がああして死に急ぎをしてしまった後、その予言はすべて当り、今日この国の本質的危機は増大し、肝心の経済さえも混乱衰弱し、国家は歴然とした衰運の兆しの内になお国民の無関心さの中で、無為な政治の手からも放擲され足踏みするまま、相対的に他国にさまざまな遅れを取りつつある」と受けている。
そしてこの後が肝心であるが
三島の死に様はあるものを自分に強く暗示したと語る。
それは肉体性のことだ。
「いずれにせよ氏は何だろうと自分自身の肉体を獲得したことでようやく、国家というものをわが身になぞらえて識ることが出来た。いや、感じ取ることが出来たのだ。そしてその国家への願望の実現についてああした手段で実行もした。
いかなる人間も自らの肉体への意識なしにみずからの属する国家なり民族について自覚し、その本質的な感触を得ることは出来はしない、と私は思う。今日の過多な情報がもたらした浅薄な観念の肥大は、人々から肉体への自覚を奪い、肉体への意識を喪失した人間たちはそれを包み込む国家社会を感じることが出来はしない。ならば愛国とか憂国のはるか以前に国家社会の規模にわたる共通の倫理に対する責任もありようあるまい」
この部分は著者の国家論のキモとなる部分ではないだろうか。

ただ、21世紀になり、この国家と肉体との“幸せな”関係は変容していくのではないかとも思えるのだが……。
人間身体としての作り自体は数千年単位でそうそう変わるものではないが、
社会的存在しての人間の意識はこの2000年で驚くほど変わった。
さらにこの数十年、そしてこの後の高度情報化社会の推移で人間の意識のあり方はものすごく変わるのではないかと思われるので。

私が松岡正剛などの本をきっかけに知った
“国家は人間を抑圧する暴力装置”としての面をもつ、という発想は
この著者にはもしかするとないのかもしれない。
この人、まずは身体性なのかもしれない。

この人の田中角栄に対しての認識は明快である。
P227 「それは悪く言えば天才的な品のなさともいえたが、少なくとも聞いていて前任者の佐藤氏のどんな談話や会話より面白く、時には馬鹿馬鹿しく面白かった」
基本的に教養はなく知的ではないが、頭はある意味で非常に切れ、妙なエネルギーで事を押し通していく。
そんな人物として描かれている。
日中国交正常化について以下のように書かれているが、私が以前読んだほかの人のものとはだいぶ推移が違う。
台湾びいきで中国嫌いの著者の思惑が若干感じられた。
田中氏の業績としては歴史に残ることであるのにここではわずか2行である。
P230 「その後すぐに田中首相は党議にもかけずに北京に飛び周恩来毛沢東と会い、佐藤前首相とは百八十度方向転換して日中の国交正常化の約束をしてしまう」だけである。しかも“してしまう”だ。

そんなこともあり田中首相への不満がたまり、著者は当時の若手政治家、藤尾正行渡辺美智雄中川一郎らと「青嵐会」(名前は著者がつけた)を結成。ここで著者は渡辺を非常に高く評価している。
今日はここまで。
この本は国家論ではないが、著者の国家に対する認識は徐々にうかがい知れてきた。
違和感は多いが、興味深い点もあり、散漫な文章だが、著者が文章に自信を抱いているのも認めざるを得ない。
結局、あまり飛ばし読みはしなかった。ほかに読みたい本があるのだが……。
↓に続く。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20110823/1314060824

国家なる幻影―わが政治への反回想

国家なる幻影―わが政治への反回想