五十嵐太郎編・著「ヤンキー文化論序説」
ヤンキーについて、何人もの識者(?)がそれぞれの得意分野で独自のヤンキー論を展開している興味深い本。
まだ半分しか読んでいないのだが、“序説”とあるだけに、
執筆者それぞれののヤンキー観がブレつつも、共通するものものあったりで面白い。
初めに登場するのが宮台真司のインタビュー(この人と都築饗一だけがインタビュー)。
宮台が、後輩に対して語るようにヤンキー論を滔々と語る。
たが、その中には「えっ、本当にそうなの」と思えるようなものもある。
ただ断定的に語られるだけに、違和感を抱きつつも
「へえ、そうなんだ。元々ヤンキーって建設業者の社長の息子がボスで、今はそれがなくなって、ただ石垣島ではまだその風習が残っているんだ」などと拝聴している気分で読み進めていく。
その後、各著者による「ヤンキー総論」「女子のヤンキー魂」「ヤンキーファッション」、近田春夫による「ヤンキー音楽の歴史」、磯部涼の「ヤンキーとヒップホップ」、森田真功の「ヤンキーと漫画」と続いていく。現在「ヤンキーと漫画」の途中まで読んでいる。
ここまでの感想では宮台のヤンキー論は、彼のインタビューの後に書かれている“論文”を読むと見劣りする印象だ。
滔々と語っているだけに、ちょっとかわいそうに見える。
以降、興味深かった説を列挙する。
女子のヤンキー魂が雑誌の面から見ると「ギャルズ・ライフ」→「Cawaii!」→「アゲハ」へと連なるとする説。
そしてそこから見える、時代のマス人気というものはヤンキー(的なもの)で作られている面があるということ。
ちょっと下品で安っぽくてセンスが悪くてクールじゃなくて情に訴えるものが多くの人をひきつける、ということ。
単車の改造車などから感じられるヤンキーの不要な装飾に関して過剰な作りこみをしていく“ヤンキーバロック”とでもいえるようなセンスの指摘。そしてそのようなことにのめりこんでいく状況(金がないので手作業でやる)、強い衝動の存在。実際に走るにはまったく適していない非合理的なものを作ることへの衝動。デコトラとは違うものであるという都築の主張。
ヤンキーの存在は“都心以外の日本”の実情を反映していた面がある。
ただ、それは失われてきている。
オタクはコレクターであり、部屋の写真を撮っても面白くない。
ただ、ヤンキーの部屋には大衆的な記号が多く、情感もあったりして興味深い。
ヤンキーのファッションにある“過剰性”、
あえてダサくするセンスにある“異化効果”。ただし彼ら自身が意識していることは思えなそうという点。
→これは先の女子論で述べられていたことにつながるような気もする。
音楽における
キャロル→横浜銀蠅→BO〓WY→YOSHIKI(X JAPAN)、EXILE、気志團
の流れ。そしてそこに流れるアーティスティックなものよりは、
チャート重視、大小差のダイナミクスをモチベーションとしている点。
そしてヤンキー音楽家のもつ“大袈裟さ”“けれん”“はったり”の魅力。
今後のヤンキー音楽の展開で一つだけ予想できること、それは安上がりに「感動」させることに特化していくことという近田春の見解。
日本のヒップホップの2つの流れ。
1つはいとうせいこう、近田春夫、高木完、そしてスチャダラパーといった「メジャー・フォース」レーベルを根源とするインテリな流れ。
もう1つはクレイジー・A、DJクラッシュ→ジブラ→アナーキー(北岡健太)の、B・ボーイ(不良=ここではヤンキー)の流れ。現在はB・ボーイの流れが主流となっている。
とりあえずメモはここまで。
↓に続く。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20110901/1314843483
- 作者: 五十嵐太郎
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