見て読んで聴いて書く

映像、書物、音楽などについての感想

都築響一「夜露死苦現代詩」

夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)

夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)

都築響一著作は今まで気にはなっていたのだが、あまり読むことがなかった。
「バブルの肖像」
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20111024/1319437113
を読んだことを機に続けて読んでみようかと思っている。

この本は2006年に新潮社から刊行された「夜露死苦現代詩」を、ちくま文庫増補版として2010年4月に発行したもの。
元は「新潮」に連載されていた記事でそれに加筆、再構成したもののようだ。
オビに
「詩は、ストリートに生きている! 寝たきり老人の独語、死刑囚の俳句、エロサイトコピー……直球勝負の言葉集。増補版!」
のコピー。

読んだ感想はまさにその通りの内容だった。
老若男女を問わず広い意味での“ストリート”にある熱気や、そこから生まれる創造的なもの(時にはに非常に奇妙なもの)に対する著者の偏愛がこの本からも強く感じられ、好感がもてる内容になっていた。

全12章に谷川俊太郎との付録対談、文庫版あとがきを加えたもので構成されている。

章立ては以下の通り
第1章 痴呆系
第2章 点取り占い
第3章 木花咲耶姫(このはなさくやびめ)の末裔たち
第4章 池袋母子餓死日記
第5章 死刑囚の俳句
第6章 玉置宏の話芸
第7章 32種類の『夢は夜開く』
第8章 仏恥義理で愛羅武勇
第9章 最大の印税が最高の勲章である
第10章 あらかじめ答えられたクイズ
第11章 少年よ、いざむつえ
第12章 肉筆のアクション・ライティング
第13章 愛・シング・ザ・ボディ・エレクトリック
第14章 人生に必要なことは、みんな湯の呑みから教わった
第15章 ヒトが生んで、ヒトが驚く
第16章 肉体言語としてのラップ・ミュージック
第17章 相田みつを美術館訪問記

“現代の詩”をテーマに、取り上げられた素材は非常にバラエティに富んでいて、自分としては興味を引くものとあまり引かないものがはっきり分かれた。

特に興味を引かれた章について以下、メモ書きする。

第7章 32種類の『夢は夜開く』
藤圭子の歌で有名な曲だが、著者の調べによると歌詞の異なるバージョンで32曲が存在しているという。
章の最後に、園まり、藤圭子から三上寛、JOJO広重、ソウル・フラワーの中川孝バージョンまで12の歌詞を掲載、並んでいるのが圧巻だった。

第8章 仏恥義理で愛羅武勇
暴走族の特攻服への刺繍についての章。
ヤンキー、暴走族文化の痕跡を後世に残すことに意欲的な著者だけに、この章があるのは必然といえる。
冒頭の4ページの文章の熱さはこの著者の真骨頂なのではないだろうか。

「この世に『詩人』と人から呼ばれ、みずから呼ぶ人間がどれくらいいるのか、僕は知らない。けれど、その職業詩人たちのうちで、自分の会心の作を上着に刺繍して、それを羽織って町を歩けるやつがいるだろうか。自慢の一行を背中にしょって、命のやりとりにでかけられるやつがいるだろうか」(P142)
ちょっと過剰な感もあるが、しびれるような啖呵である。
この文に続いて太字で暴走族の詩が続く。

天から貰ったこの命
咲いて散るのが我人生
たとえこの華散ろうとも
一生一度の青春を
地獄で咲かせて天で散る
自分で選んだ道だから
命尽きても悔いは無し
我ら華麗な暴走天使

この詩の後に著者はこう語る。
「いまこの時代に、死と詩がこれほど近くにあるケースを、僕はアメリカのギャングスタ・ラップのほかに思いつかない」
なかなか文章でここまで言いきれる人はいない思う。

第9章 最大の印税が最高の勲章である
この章で著者は連載の関係もあり、ここ数年アメリカの田舎町を2週間ほどかけてレンタカーで回る旅を年に何回かしていると語っている。
その際に日本と同様駐車場などでたむろする若者を見かけるという。そして彼らが流している音楽は、ロックでもヒット・ポップスでもなく、100パーセント、ヒップホップだそうだ。
著者はこの章でヒップ・ホップの歴史を解説、ストリートの現代詩としてのラップのリリックについて語る。
ジェイZ、ナズ、そしてエミネムの代表的なリリックを原語もあわせて全文掲載している。

私自身はカニエくらいしか聴かない人間なのだが、ここで掲載されたリリックの訳を読んで正直、心を大きく動かされた。
素晴らしい詩だと思う。
ヒップホップを知らない私のような人間なら、この章を読むだけでもこの本を読む甲斐はあると思う。

第17章 相田みつを美術館訪問記
“大衆”に人気がある。だが“アートに見識を持つ人間”が無視しているアーチストとして、著者は、相田みつをとヒロヤマガタを挙げている。
その後ヒロヤマガタについては特に触れていないが、ここで著者は、大衆から大きな支持を得ている相田みつをについてまともな評論がないことを嘆く。
そして以下のような相田みつを擁護する言葉をつづる。
「便所と病室にいちばん似合うのがみつをの書だと多くの人が知っている。
立派な掛け軸になって茶室に収まるのではなく糞尿や芳香剤や消毒薬の匂いがしみついた場所に。
そしてだれもがひとりになって自分と向きあわざるをえない場所に。
そういう場所で輝く言葉を、もしくだらないとけなすのだったら、居酒屋の頑固オヤジやホスピスで闘病生活を送る末期患者を、なるほどと納得させられるだけのけなしかたをしなくてはならないだろう。
それができないから、プロは相田みつをを誉めもしなければ、けなしもしない。
ただ眼をつぶって、耳をそむけて、きょうも美術館(この章で紹介されている「あいだみつを美術館」のこと)の前を早足で通り過ぎるだけだ。
だれもが愛しているのに、プロだけが愛さないもの。
書くほうも、読むほうも『文学』だなんて思いもしないまま、文学が本来果たすべき役割を、黙って引き受けているもの。
そして採集、保存すべき人たちがその責務をまるで果たさないからいつのまにか消え去り、失われてしまうもの。
(中略)〜ほんとうはすごく詩的な民族のはずなのに、いったいいつから、だれのせいで、僕らは生きものとしての詩を失ってしまったのか。
このささやかな文章が僕らの手にリアルな言葉を取り戻す、小さなきっかけになってくれたら、これ以上うれしことはない」(P337)
あいだみつをから始まり、詩についての見解を述べるこの文章に、詩だけでなく都築の訴える“もうひとつのアート観”が集約されているような気がする。
ちなみに、このあたりの熱さは遠藤賢二をちょっと連想させる、と私は思ったのだが……