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伊藤計劃の小説「虐殺器官」

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

ゼロ年代ベストSF小説”などと評されているので、そのうちに読んでみようと思っていたのだが、やっと読むことができた。
電車の中、3、4日間で読了した。

第1部から第5部、そしてエピローグで構成されている。
読んでいて色々思うこともあり、興味深い点も多かった。
ただ、この小説が大傑作かというと、どうなんだろう、という読後感である。

“何をどう書くか”という観点から読むと、この小説は“どう書くか”ということに、並々ならぬ力が入っている小説である。
サイバーパンク以降のアニメ、ビデオゲームに登場するようなツール、世界観がたっぷり注ぎ込まれている。そのあたりが“新しい”と評価されたのかもしれない。
また、第1部の物語などは「地獄の黙示録」を連想させるところもある。

ただ、私が一番興味深く思ったのは
この小説が“言葉をめぐる物語である”ことだった。
そして物足りなく感じたのも、その点にあった。

この小説は元々2006年の小松左京賞に応募した作品だそうだ。
最終選考までは抜群の評価を受けていたが、最終選考で落選した。
最終選者である小松左京の評価が芳しくなかったようである。
円城塔の「セルフリファレンス・エンジン」も同時に最終候補にあがっていたが落選、この回は受賞者なしとなっている。

文庫版のあとがきを書いている大森望小松左京の選評の一部を抜粋している。
それによると、こんな具合である。

伊藤計劃氏の「虐殺器官」は文章力や「虐殺言語」のアイデアは良かった。だが肝心の「虐殺の言語」とは何なのかについてもっと書いてほしかったし、虐殺行為を引き起こしている男の動機や主人公のラストの行動などに関して説得力、テーマ性に欠けていた。

まさにその通りだと思った。
仏作って魂入れず。
流麗な形はできたが、その中にある強い物語性やそれを動かすモチベーションに欠けている。
そういわれても仕方のない作品、と私には思えた。

この小説、どのような構造かというと、こんな具合ではないかと思う。
米軍特殊部隊のエキスパートである主人公。彼の職務は、米国政府の指示の下、内乱状態にある“後進国”において大量虐殺行為を指示している指導者を、暗殺することである。世界各地を訪れミッションをこなしながら、彼は、共通する謎を追うことになる。

“007”“ミッション:インポッシブル”で主人公が世界を巡ってやっているような展開のお話である。
それはそれでいいのだ。
だが、そこに観念的な、“言葉をめぐる物語である”という要素を組み込もうとしたことが消化不良になっている、というのが私の読後感だ。

あくまでも、ファクト=フィジカルなことのみを冷徹につづり、読ませているのならよかった。
だが、事象の奥にある、メタフィジカルといっていい観念的な世界についても語ろうとするそのスタンスがどうにも中途半端で読んでいてもどかしく、違和感を抱かせたのだ。


あとがきには「“神話的、イコン的未来性”を注意深く排除しながら」(P402)と書かれてあるのだが、この文章の意味がどうにもわからない。
排除するといことは、そういった要素があることはよくないということなのだろうか。
そして、このことに関しては排除というより、むしろ中途半端に書かれていたという印象を私は抱いたが。

そして、私は“神話的、イコン的未来性”があること自体は否定すべきものではないと思う。

そもそも小説というものは良くも悪くも、神話性から逃れることはできないものだと私は思う。
神話というものが物語の原型でもあるのだから。どうあがいても物語は結局、神話から逃れることはできない。
広い意味での“神話”というものはコミュニティにおける人間の同一性を保つための重要な装置だった。そういうものとして物語というものは生まれたのだと思う。この小説はアンチ・ロマン(反小説)でないだろうし。

神話うんぬんよりも、その是非は、結局作品としての仕上がり、レベルで決まるものだと思う。

そしこの小説についていえば、“神話的、イコン的未来性”は、注意深く排除されているのかどうかはわからないが、その作品自体が語る世界は、この小説での新味のある語彙、表現力と比較すると、あまり深いものではないと思う。

ただ、20代にしてサラリーマン生活を送りながら第1稿を書き上げるのに10日というのは驚異的である。もちろん時間と手間をかけたリサーチ、下書きがあったのだろうが、それにしてもすごい。さらに単行本のために付け加えられたムンバイ編の第4部などは描写も研ぎ澄まされ、引き込まれた。ターゲットを捕獲後なんでわざわざ危険性の高い列車に乗り換えたのか非常に引っかかるというのはあるが。

結局、小松左京の評にあるように表現力、アイデアに関しては卓越したものがあるのだが、物語としての深みがないのだ。特に観念的な部分に関しての想像力における力不足は感じた。

’70年代に「神狩り」で20代半ばにしてデビューした山田正紀は、これより遥か先を“見ていた”と思う。

“虐殺を誘う言葉”というものの説明も非常におざなりで、突っ込んでいない。
このアイデア自体は膨らませ方しだいでは画期的な作品になることもあり得たはずだ。
だが、このアイデアに、“虐殺の文法”タイトルでは“虐殺器官”といった非常にアバウトな単語をあてはめ、詳しい説明はなし。
作者の中で“虐殺の言語”は明確に定義されていなかったのではないかと思えてしまう。

私は、言葉というものが生まれるときのダイナミックな瞬間をとらえようとしたフェルディナン・ド・ソシュールの理論あたりを援用した思念が展開するものかと期待していたのだが、非常に肩透かしをくらった。

まだまだ引っかかる点はあったのだが、あまり書いてもしょうがないのでこのあたりにする。ただ、才能のある作家であることは間違いないと思う。
「ハーモニー」も読んでみることにする。また、印象が変わるかもしれない。

↓後日、「ハーモニー」を読んだ感想メモ。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120715/1342367167