クリストファー・ノーラン監督、クリスチャン・ベール主演のバットマン映画「ダークナイト ライジング」
とても不思議な映画である。
2時間45分の間、私は夢を見ているような気分で映画に没入していた。
特に中盤までの不穏で緊張感に満ちた映像・音響世界に引き込まれた。
だが、どのような理由で私がこの映画に引き込まれたのかをうまく言葉にすることができない。
とりあえず、思ったことをメモとして残し、後日また思うことあれば更新する。
この作品、商業作品としてのドラマチックなメリハリ(見せ所をしっかり作っているかということ)が意外に淡白なのだ。脚本的な不備というのでなく。
さらに物語における“何がどうしてどうなる”という動機付けもあっさりしている。
例えば、親を殺した男に復讐を誓う、というストーリーであれば動機付けははっきりと生まれ、そこにさまざまな事情、人間関係などの要素を付け加えれば物語としてメリハリも生まれドラマチックなものになるだろう。
この作品ではそういうドラマ性をつくるための誇張は排除している。
さらに前作にあったドラマにおける重要な要素“葛藤”が妙に希薄なのだ。
見るものが主人公に共感、自身の意識を主人公の行動に託し、カタルシスを得る
というハリウッド映画にある、共感→葛藤→苦闘→開放という部分について恐ろしいほど淡白である。そういった部分も構成としてはきちんと取り入れているのだが、あくまでも誇張した細工はない。
ラストなど、ヒーローのヒーローたる行動で見る人の涙を誘うような感動的なドラマが作れるのに、あえてそうせず、淡々とドラマは終わる。
そういう意味では、見るものの安易な共感を配したところで描かれたヒーローものということになるのだろうか。
私にとって今年見た映画でこの作品に近いものといったらタル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」ということになるのだが、いきなりそう言われてこの意見に共感する人はまずいないと思う。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120223/1330016598
↑ここで書いた“純映画”といったものを感じたのだ。
映画そのものの“力”“強度”を感じたとでもいうのだろうか。
映像の流れに対する“因果・理由付けの誇張”を意図的に排しながらも、映画として2時間45分の緊密な時間を作ることに成功した作品といえるのかもしれない。
昨今“泣ける映画”“笑える映画”などという目的に応じた映画紹介、みたいなものがはびこっているなか、泣けも笑えもしないが、濃密で緊張感のある映像・音響体験ができた稀有な映画であることは事実だ。
私がもっと映画に詳しければ、何か書くことができるのではと思うのだが、この映画についてはどうも、うまく文章という形で外に出すことができない。
ただ、ハリウッドの大予算の映画でこのような作品が作られるということには、なんだかんだいってアメリカ映画産業の懐の深さを感じさせる。
超大作でありながら、こんなに不思議な映画が作られているのだから。
また気付くことあれば更新したい。
終盤のバットマンとベインの殴り合いのシーンは「マトリックス レボリューションズ」のエージェント・スミスとの殴り合いに通じるものを感じた。「マトリックス〜」は雨の中だったが、こちらは小雪のパラつく中での殴りあい。アメリカ映画の王道なんですかね。