柚木麻子「早稲女、女、男」
- 作者: 柚木麻子
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2012/07/24
- メディア: 単行本
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9月に柚木麻子著「終点のあの子」を読んだ。
↓「終点のあの子」を読んだ感想メモ。
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120918/1347933631
- 作者: 柚木麻子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/04/10
- メディア: 文庫
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著者の柚木麻子は小説と同様、世田谷区にあるプロテスタント系の中高一貫の高校・恵泉女学園を卒業した人。自分の経験も踏まえて書いた小説と思われた。
著者自身はその後、立教大学の文学部仏文科に進んでいた。
「少女漫画のような小説」という評価に興味を抱いて読んでみたのだが、私の読後感も“軽くて薄い”少女漫画というものだった。
その後、週刊文春の書評で、彼女の著作「早稲女、女、男」が出ているのを知った。
ちょっと興味を持った。なぜ、立教を卒業している著者が、わざわざ早稲田の女子学生を主人公にした小説を書いたのだろう?
私自身が、20年以上前に早稲田大学を卒業していることもあるので、現在の早稲田の一般的イメージが、どのように描かれているのかにも興味をおぼえた。
そんなわけで読んでみた。
“早稲女”という言葉を、私は“ワセオンナ”と読んでいた。
本の表紙のルビを見て、初めて“ワセジョ”と読むということを知った。
昔はそんな言葉はなかったような気がする。
私は使った記憶はない。
男は“ワセダン”とも呼ばれるらしい。
初めて知った。
「終点の彼女」と同様、複数の女性を主人公にした連作短編集だった。今回は各大学の女子大生(OG)6人が主人公。ワセジョの早乙女香夏子を軸にして、それぞれの生活スタイル、人間関係(特に恋愛関係)がつづられていく。
目次はこんな感じである。
・「愛の魂正義の心」 立教大学 立石三千子の場合
・「匂うがごとく 新しく」 日本女子大学 本田麻衣子の場合
・「花は咲き 花はうつらふ」 学習院大学 早乙女習子の場合
・「往(ゆ)け 涯(かぎり)なきこの道を」 慶応義塾大学 慶野亜依子の場合
・「ひとり身のキャンパス 涙のチャペル」 青山学院大学 青島みなみの場合
・{仰ぐは同じ気 理想の光」 早稲田大学 早乙女香夏子の場合
各大学の校歌の一節がタイトルになっている。ただし、なぜか青学だけはサザンオールスターズの曲の歌詞の一節から取っている。
名前と大学名を見るとわかるように、立教→立石、日本女子大→本田、学習院→習子といった具合に、学校名の一文字を名前に使っている。
こんな名前をつけているということは、リアルな文学的小説というよりは、作者の考える大学のイメージに応じてキャラクターを設定した企画職の強い物語ということになるのだろう。
大体、大学で人間のキャラクターを決めることに無理がある。早稲田の在学生なんて万単位でいるのだ。
以下、読んだ感想メモ。
帯に書かれていた文字そのまんまの小説だった。
こんな感じ。
女子小説のトップランナー最新作
面倒臭くて 痛々しいけど憎めない ワセジョと、5人の女子の 等身大の物語◆立教大学 立石三千子[7割の力でそつなく生きる世渡り上手]
◆日本女子大学 本田麻衣子[王子様を見定め中のみんなのアイドル]
◆学習院大学 早乙女習子[実は型破りに憧れているコンサバ系]
◆慶応義塾大学 慶野亜依子[5年先を見越し計画的に生きる素敵女子]
◆青山学院大学 青島みなみ[地味な自分を華やかさで上書きしたオシャレ上級者]それぞれが抱える葛藤と恋。彼女達の目にワセジョ早乙女香夏子はどう映る……?
いい意味で深みのない小説だった。感覚的であるが、観念的ではない。
読んでいてしばらくは、随分と薄っぺらい、ステレオタイプの人間ばかり出る小説だなーと思っていのだが、読んでいるうちに、「これはこれでいいのかもしれない」と思うようになってきた。深読みせずに軽く読めるよさというのがこの小説にはあった。
商品として、これはこれでありなのではないだろうか。
大学のイメージを具現化するキャラクターを設定して物語をつむぐという、企画色の強い“強引な”小説なのだから。
読み終えてこう思った。
結局この小説の軸となるのは“愚図な”ワセジヨが“愚図な”ワセダンと“グズグズな”関係を続けていくという話なのだろう。いつの世にもある話である。
ラストの東京ドームシティの遊園地シーンはなかなかよかった。
ちょっとハッとする描写でもあった。
「終点のあの子」のラストよりは格段によかった。
著者はシナリオセンターにも通っていたようだし、脚本を書いてもいいのではないかと思う。
この小説、大学教授の名前がただ1人だけ登場する。学習院文学部の中条省平氏である。何故なのだろう?
長々と感想を書くような小説ではないのでこのあたりで終えておく。
結局、今も昔も大学の名前からのイメージというのは、あまり変わらないものだということはこの小説を読んでわかった。
とりあえず、アップして後で読み返してみることにする。