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三浦しをんの小説「仏果を得ず」

仏果を得ず

仏果を得ず

基本、発表順に読み進んでいる三浦しをんの小説。今回は12冊目。
このところ、中短編集を読んでいたのだが、正直言うと個人的には今ひとつピンと来なかった。
そんなこともあり、あまり気乗りせず読んだ。

人形浄瑠璃である文楽の太夫に自分の人生をかける30ちょっと過ぎの青年(といっていいだろう)を描いた小説だった。
文章は、前に踏み込んだ勢いを感じさせるものとなっていた。
センテンスは短く、歯切れよい。そして熱気を帯びている。
そんな文章が、芸の世界を通して懸命に生きる若者の姿を清清しく描き出している。
読んでいて引きこまれた。

三浦しをんの作品群の中に、「ある目標をもってひたむきに行動する男性を描く」というものがある。
今まで読んだ中では「風が強く吹いている」「舟を編む」がその流れにある作品だった。
「仏果を得ず」もその中に位置する小説といっていいだろう。

作者は文楽に関してのエッセイ「あやつられ文楽鑑賞」(未読)なるものを出している。
文楽に対する“愛”が、前に踏み込んだ勢いのある文章にさせたと思われる。

個人的には、本屋大賞を受賞した「舟を編む」よりも「仏果を得ず」の方が断然よかった。
書き下ろしの大作「風が強く吹いている」と比較しても、文の思い切りのよさではこちらのほうが上だ。

連載されていたのは双葉社の月刊誌「小説推理」だったとのこと。
巻末の謝辞を読むと特に双葉社の編集者への感謝の言葉はない。
勝手な推測だが、編集者からのディレクションは特になく、作者のなかですでにあった文楽への思いを一気に書いたという感じだったのではないだろうか。

少年・青年漫画にあるような、主人公の目標に向けて努力するストレートな行動と世界とのかかわりが読んでいて非常に心地よかった。
万人に向けて描かれた小説としては三浦しをんの代表作といってもいい仕上がりだと思う。
文楽についての知識がほとんどない私も楽しんで読み、心動かされた。

文楽の世界を通し、“生きる”ことを描いた快作だと思う。

ちなみに「仏果」とはネットで見た大字林第三版によると

仏道の修行によって得た仏の境地。 「 −を得る」

とある。

以下、主人公の熱い思いをつづった部分を抜き出させてもらう。
こんな文章、今までに彼女はあまり書いていなかったように記憶する。
文楽をモチーフに“生きる”ということが熱く語られている。

P50
いや、それだけじゃないはずだ。健はそう思う。
与兵衛の言動の裏には、彼を見捨てない周囲の人間の心情には、もうひとつ隠されたなにかがある。
知りたい。俺は感じたい。
与兵衛を、与兵衛を取り巻く人々を、彼らに託して近松門左衛門が表現しようとしているなにかを。
できることなら、つれていってほしい。
現代の心と感覚を宿した俺を、三百年前の大阪の町へ。
そこで生き、死んでいった人々の生活のなかへ、どうか俺をつれていってくれ。
健は熱情をこめて、義太夫の詞章を丁寧に語りつづけた。
(「女殺し油地獄」)

P66
健は苦笑した。
頭のなかでは、もう与兵衛のことを考えている。
与兵衛の母方の一族は下級武士だ。だが与兵衛は、侍にはなれない。
油屋の子に生まれたら、油屋になるのは決まったも同然な社会だからだ。
たぶん与兵衛は息苦しかったんだろう。
河内屋は、侍と商人という二つの身分が交わっている場所だ。
江戸時代の身分制度が凝縮した場所。
侍も商人も、それぞれ細かな階層にわけられていて、すべては生まれついた家柄で決まる。
与兵衛の兄は従順に油屋になったけれど、与兵衛はそれを拒んだ。
信心も孝養も蹴散らして、全部に否と言おうとした。
そうだ、与兵衛の魂は自由を求める。
その輝きが、周囲のひとたちを惹きつける。
与兵衛の無軌道に、親もお吉も近所の住人たちも、あきれながらも憧れる。
見かけ倒しの、青臭い反逆だとうすうす勘づいていても、与兵衛を見捨てず、愛した。
(中略)健はついに、確信を抱いた。
近松門左衛門は「女殺油地獄」で、あらかじめ定めづけられた生への疑問を、描きたかったんだ。
たとえばいま、女だから俺と同じ場所に立てないと知って、ミラちゃんががっかりしているように。
たとえば研修所出身の俺は、自分の見台んか一個しか持ってなくて、師匠に借りたりしてやりくりしてるけど、文楽の家に生まれた太夫は、代々伝わる漆塗りや螺鈿の見台をごろごろ持っているように。
自分ではどうしようもない部分で、なにかが決められてしまうことがある。
それは仕方のないことだ。
そこから自由になりきれるものは、だれもいない。
だけどそれは、哀しみやむなしさを確実に生みだしつづけている。
俺は語れる。それを自分なりに咀嚼して、語って伝わると信じられる。
本舞台では与兵衛の全身から、自由への希求が色気となって放射した。
兎一郎の三味線は、破壊への激しい欲望を叩きつけ、ひるむ臆病さを掬いあげ、うねりとなつて劇場じゅうの空気を揺らした。
健は語る。健は感じる。ときとしてひとの魂が行くことになる、暗い道がどこまでものびている。
与兵衛はもうすぐその道を行く。
「越ゆる敷居の細溝も、親子別れの涙川」
三日間の代役を見事果たしおおせた健が、大阪の観客から喝采を浴びたのは言うまでもない。
(「女殺し油地獄」)

P118
登場人物はすべて、舞台のうえで精一杯に、それぞれの生を生きているだけ。
本当にそうだ。そして、そんな彼らを生かす難しさといったらどうだ。
道は遠い。
昼下がりの明るい光のなかから、内子座へ入る。瞳孔の調節がとっさにきかず、健は目をしばたたいた。
古い芝居小屋の薄闇は底知れず面々とつづく文楽の道を、そのまま体現しているようだった。
(「ひらかな盛衰記」)

P214
そうだ、このひとたちは生きている。
ずるさと、それでもとどめようのない情愛を胸に、俺と同じく生きている。
文字で書かれ、音で表し人形が演じる芸能のなかに、まちがいなく人間の真実が光っている。
この不思議。この深み。
「熊野の牛王の群鴉、比翼の誓紙引きかへ今は天罰請文。小春に縁切る、思ひ切る」
紙屋のなかに、悪人はだれもいなかったにもかかわらず、物語は悲劇へ転がっていく。
畳みかけるような健の語りは、日常にひそむ運命の瞬間を冷え冷えと観客に知らしめた。
(「心中天の網島」)

P226
早く砂太夫に稽古をつけてもらわなければ。
健はそう思った。もっとうまくなりたかった。
もっと義太夫の真髄に迫りたかった。
健の脳裏ではいつも、理想の語りが谺している。
冴え冴えとした三味線の音と響きあい競りあって、言の葉はひとの魂の形を浮き彫りにする。
その境地に迫りたいと思った。もっと、もっと。
(「妹背山婦女庭訓」)

P233
うちの師匠と砂太夫師匠とでは、性格も生活態度もずいぶんちがうんだよな。
健は茶をすすりながら思った。
これはそりが合わなくて当然だ。でも、二人には共通している部分もある。
それぞれのやりかたで、このうえもなく真剣に義太夫に取り組んでいるところだ。
それは銀太夫も認めていて、だから健を砂太夫のもとに送りこんだのだろう。
(「妹背山婦女庭訓」)

P248
稽古場に入ってきたなにものかは、見台のかたわらにたたずんでいた。
無言のまま健を見下ろしているようだったが、ふと静かに笑う気配があった。
絹擦れの音がし、その男は健に向かってかがみこんだ。耳もとではっきりと声がした。
「生きることだ。生きて生きて生き抜けば、勘平がわかる」
健は勢いよく身を起こした。あたりを見まわす。稽古場には健以外にだれもいない。
戸口は閉まったままだ。蛍光灯が青白い光で部屋のすみずみまで照らしている。
なんだ、いまの。
「夢……?」
それとも、噂の幽霊か。
(中略)
夢でも幽霊でもかまわない。
健は猛然と床本を操った。
生き抜けばわかる。
そうだ、勘平を語る肝はそこだ。
つかめそうだ。
健のなかで言葉が集まり、早野勘平の実体を形づくりつつある。
もしかしたら、月太夫さんが様子を見にきてくれたのかもしれない。
健は床本を読みながら思った。和紙は柔らかく、触れる健の指先を受け止める。
月太夫さんは、兎一兄さんと同じことを言うんですね。さすが、相三味線だっただけはある。
兎一兄さんも一番最初に俺に言った「長生きすればできる」と。
そこには文楽の、勘平の、俺の、あらゆる人間の、願いと真実が宿っている。
語れる、と健は確信した。
俺は「勘平腹切の段」を語ることができる。
主君の大事を目にしながら恋人と逃げのび、死人の財布を奪い、なにがなんでも仇討ちに参加しようとする男。
矛盾と混乱のただなかに常にいる、早野勘平は俺だ。
(「妹背山婦女庭訓」)

クライマックスとなる最終話の「仮名手本忠臣蔵」にも色々あるのだが、疲れたのでこの辺にしておく。