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大里俊晴の小説「ガセネタの荒野」

ガセネタの荒野

ガセネタの荒野

この本は洋泉社から'92年に出た小説を2011年に復刊したもの。
2009年に著者の大里俊晴が死去したことを受けてのことかもしれない。

大里俊晴に特に縁のなかった私が、この本を読んだきっかけは以下のような経緯だ。
図書館で片山杜秀責任編集「ラチオスペシャル・イシュー―思想としての音楽」という本が返却棚にあるのを目にして、借りてみた。

別冊「本」ラチオ SPECIAL ISSUE 思想としての音楽

別冊「本」ラチオ SPECIAL ISSUE 思想としての音楽

菊地成孔vs.片山杜秀」「許光俊vs.片山杜秀」の対談とさまざまな人の寄稿から構成されている本だった。
はっきりいって全くピンとこない内容だったのだが、何故かそこに、渡邊未帆という人の「カットアップの快楽−大里俊晴音楽論にかえて」なる文章が掲載されていた。
若き日、高橋悠治に傾倒していた大里が、高橋や坂本龍一のことなどについて書いた過去の文章などを切り張りし、それに筆者の心情吐露を絡めたものだった。
正直、あまり感心するような出来のエッセイではなかった。
だが、どうしてなのかわからないが、ここで読んだ大里の文にちょっと興味を引かれ、かつ心動かされた。
大里の文章は意識して読んだことはなかった。
“私はなんでも知ってます(見通してます)”的なある種スカした菊地成孔的言説を展開する人と思っていたのだ。
だが、ここで読む大里の文章は非常にベタで誠実で高い熱を帯びたものように思えた。
ということで、この小説「ガセネタの荒野」を読んでみようと思った。もちろん図書館で借りてである。

読むまで、これが小説ということは知らなかった。
自伝的青春小説という趣である。
地方から上京した大里が、浜野純、山崎春美という頭がムチャクチャ良くて感性が鋭い“変わり者”とバンドを結成。彼らの奇矯な行動に翻弄され、かつ過剰な自意識に悩みながら日々を過ごすという“赤裸々な青春小説”である。
スカした人間ばかりの2014年時点の現在、このような素朴で自意識過剰、かつ無防備な文章が出版されることはあまり想像できない。

それどころか、ここに描かれている'80年代前後ならではの素朴でナイーブな世界は、出版された'92年に私が読んだらかなり“痛い(気恥ずかしい)”ものとしたような気がする。
だが、出版から20年以上たち、中年となった私は、この本を読んで意外に心動かされた。
もう一回りしてしまったからかもしれない。
著者の吐き出す無防備な熱気にやられてしまった。

私は著者(’58年生まれ)より遅れているが、’60年代の前半生まれなので、ここに登場するミュージシャン、場所などはほぼリアルタイムに近い感覚で体験してきている。
しかもこの本を読んで初めて知ったのだが、私はこの本で著者が唾棄すべきものとした著者と同じ大学の同じ学科を卒業していたのだ。
この本にはフランスの文学者の名前が何人も登場する。マルセル・プルーストモーリス・ブランショ、アントナン・アルトールイ=フェルディナン・セリーヌ。浜野に対してはジュリアン・グラック著作から引用して「陰鬱な美青年」などと形容していたりする。一体、グラックの「陰鬱な美青年」など、この復刻版を読む若者の何人が知っているのだろう。特にアルトーに関しては著者、浜野、山崎が傾倒していたと語られている。これは鬼畜ライターとして活躍した村崎百郎にも通じるものだ。というか、あの世代の人たちにはアルトーにやられた人が多いのかもしれない。

村崎百郎の本

村崎百郎の本

↑かつてアマゾンにレビューを書きました。

この本を読み、“ロックと文学”、そんな言葉を思い出した。
それを象徴的する存在としてジャズ〜ロック評論家の間章が登場する。
“ロックと文学”、しかもフランス文学! こんな文脈でロックのことを語る若者って現在はいるのだろうか?

“青臭い自意識過剰な文章”だけではくくることのできない“無防備でナイーブな疾走感”がある文章だった。
ともかく、この“無防備さ”に心打たれた。