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映像、書物、音楽などについての感想

萩尾望都の漫画「トーマの心臓」

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

ポーの一族」と同様、こちらも自分なりに再読して思ったこともあったので、感想の記録をとりとめもなく残しておくことにする。

「ポーの一族」の感想

箇条書きですませる。

◆身もふたもない言い方をすれば
トーマの心臓」は“ドイツの寄宿舎を舞台にしたBL的要素を加味した青春もの”
といっていいのだろう。
そして再読して思ったのは、少女漫画で“文学”を試みた作品でもあるということ。
BL的要素についてはさっぱりピンとこなかった。これは当時と同様だった。

◆文学や芸術に関しての講義のシーンがあるが、かなり突っ込んだ部分についての教師の話が挿入されていたりする。そのあたりからも、作者、ブレーンだった人物の文学志向が強く感じられる。

◆そして「ポーの一族」同様、ページあたりの情報量の多さ、濃密さ、独特の漫画話法がすごい! 圧倒された。たった1冊でありながら作品世界にすっかりはまり込んでしまった。最近の漫画では、こういう読書体験はあまりできない気がする。

◆「ポーの一族」と同様、キャラクターの描線にバラツキがある。当時は漫画家本人だけでなく複数のアシスタントが主要キャラクターを描いていたということなのだろうか?
読んでいて一番気になった点だった(良くない意味で)。

◆寄宿舎を舞台にした小説というのはあまり読んだ記憶はないが、ケストナーの「飛ぶ教室」は読んだことがある。直接的な影響はないとは思うが、「飛ぶ教室」に登場するさまざまな少年たち、彼らの抱えるそれぞれの事情とそれを気遣う周囲の人間の友情、物語で発生する事件・問題を解決していく過程……など、通じる世界があると感じた。さすがに「飛ぶ教室」にはBL的要素はないが。

◆謎が提示され、その謎が解かれていく過程を追うミステリーの要素もある。「ポーの一族」と同様、この要素が「トーマの心臓」における物語の推進力となっているのは間違いないいと思う。「ポーの一族」と同様、これがあるからこの作品はロングセラーとなっているのだろう。

◆冒頭のタイトルバック見開きに、少年と大人の男性が朝焼け(夕焼け?)の原野の中、背を向けて立っている図版がある。

そこにはトーマの遺した言葉が載っている。

ぼくは ほぼ半年のあいだずっと考え続けていた
ぼくの生と死と それからひとりの友人について

ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が
性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって
投げだされるのだということも知っている

これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さねばならないのだ
どうしても

今 彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない

人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死

それなら永遠に
ぼくは二度めの死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に

重要なシーンと思われたので、私は読みながらそのシーンが何なのか考えていたのだが、ずっとわからなかった。このシーンが何を意味しているのかはラストまでいかないとわからない。
安易な予測ができない、流し読みのできない漫画なのだ。

この原野の少年と大人の男性の構図はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの一連の絵画を連想させることに今回再読して気付いた。

非常にまとまりがないが、この辺にしておく。
また思うことあれば修正してみたい。

その後、SFの「スター・レッド」「ウは宇宙船のウ」も再読した。

スター・レッド (小学館文庫)

スター・レッド (小学館文庫)

ウは宇宙船のウ (小学館文庫)

ウは宇宙船のウ (小学館文庫)

こちらについてはメモを残すほどの新たな発見、興味深い点はなかったので感想は書かずにおく。
「スターレッド」は観念的SF、「ウは宇宙船のウ」はレイ・ブラッドベリという印象はそのままだった。
印象に残ったものといえば、「スター・レッド」の冒頭シーンでのはすっぱな娘レッド・星の「はん」というセリフと風俗描写に“時代”を感じたくらいだろうか。
ただ、'70年代にSFを読んだ経験のない人であれば、作品に関して違う感想を抱くかもしれない。