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日野啓三の遺作エッセイ「書くことの秘儀」

 

書くことの秘儀

書くことの秘儀

 

 デュラスを介して小説を書くことの秘儀に迫る

小説「台風の眼」を読んで、久しぶりに日野啓三の書いたものを読んでみようかと思った。   

 日野は2002年に73歳で死去した小説家だ。   

もう亡くなってから14年ということになる。   

生きていれば80代後半の年齢になる。   

私から見てもかなり上の世代の作家だ。   

 

だが、80年代ニューウェイヴのロックを好み、エッセイでブライアン・イーノのことを書くなど、この世代の作家としてはユニークな感性を持っていた。   

純文学の範疇に入る人だと思うが、小説やエッセイも、ロックやSF、映画などの“サブカルチャー”への見識もあり、彼の書く独特な幻想的な小説はなかなか魅力的だった。 

 

彼の遺作エッセイ集となる「書くことの秘儀」をまず読んだ。   

「すばる」に連載されていた「小説をめぐるフーガ」の8つの原稿に「書くことの秘儀」と題したエッセイを掲載したものだった。   

タイトルに「書くことの秘儀」とあるが、ここで著者が示している“書く”とは“小説を書くこと”である。   

 著者はこの単行本の「はじめに」でこんなことを書いている。   

なぜ小説を書くのか、書かねばならないのか--という風に自分に問うことはない。しばしばではないが、時折自問するのはこういう問いである。   

<なぜ小説を書きたがるのか。小説を書くことが、どうしてこれほど深く楽しいのか> 

(中略)   

エッセイを書くことと小説を書くこととは違う。書くという行為の、自分の中での深さが違う。書かれたものへの畏れの度が違う。自分の体験を語ろうと、他人の作品や思想を論じようと、語り方、評し方がいかに貧しく浅薄でも、この自分、その作品が一応実在していることは、自分も読み手も知っていることになっている。   

(中略)   

文章の連なりに過ぎない作品自体がリアルでなければ、作者自身どんなに苦労しようが、時間をかけようが、戯言でさえない。無である。   

(中略)   

小説を創り書くということは、恐ろしいことであり畏るべきことなのだ。   

(中略)   

小説は諸々の良き偶然と作者の能力と努力によってうまくできれば、論文でも評論でもエッセイでも詩でさえも表現できない“何ものか”を虚空に表現できる。だがうまくゆかなければ、ムシの列のような黒いしみの並んだ紙束に過ぎない。   

その“何もの”とは何か、紙束を小説に化生させるリアリティーとは何のことか--そのことを考えてみたい。  (P7-P9)

 遺作エッセイでもあり、これだけのことを書いているので、ものすごく期待したのだが、内容はそのことを突き詰めて書いたものではなかった。   

この書物の大半を占める連載エッセイのタイトルが「小説をめぐるフーガ」とあるように、書くことに関して、さまざまな思い浮かぶことをつづったものである。 

 

“小説を書くこと”についての書物であれば、私は辻邦生の一連の著作のほうが、より突っ込んだ考察をしているように思える。   

   

とはいえ、非常に興味深い記述はいくつもあった。   

 

情緒論の試み

情緒論の試み

 

 

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)

 

 

薔薇の沈黙―リルケ論の試み

薔薇の沈黙―リルケ論の試み

 

 

そしてこの書物の最も読みどころは最後に収録された「書くことの秘儀--マルグリッド・デュラスの『愛人』」だろう。   

たった19ページの、簡潔な文体でつづられたエッセイだが、感銘を受けた。   

 

愛人

愛人

 

 ただ、デュラスを読んだことのない人、デュラスに興味のない人にはピンとこないかもしれない。     

こんなことを書いていたと一応記しておく。   

「書く」ことによって「ほんとうのこと」が呼び出され呼び寄せられ、生きを吹きかけられ血を注ぎ込まれ、影のように亡霊のように、近く遠く明るく暗くたち現れるのであって、「書く」前にホントもウソもない。顔も水脈も陰影もなく混沌さえもない。「書き方」だけが「ほんとうのこと」と「ほんとうに成り切れない」あるいは「ウソでさえもない」こととを分ける。   

晩年のデュラスがインタビューで《L'ecritue c'est moi》(エクリチュール、それはわたしのことだ)と毅然と語っているのも、そういう意味だろう、とフランス語を解さない私も実感し了解し共感することができる。  (P170)

(中略)

そのようにして、『愛人』という作品は、<書く>という秘儀を成就した。(P184)

このP170からP184までに、日野は書くということの秘儀について解き明かしている。

飛ばし読みしては理解できないこの作家ならではの文章である。 

 

続けて小説「砂丘がうごくように」(中央公論版)を読んだ。  

この小説は連載時と書籍になつた中央公論版と講談社文庫版ではかなり改変がされているとのことだ。  

講談社版も軽く読み、感想メモを残すことにする。