皆川亮二の漫画「PEACE MAKER」全17巻、そしてエンディングについて
肝心なところを描かなかった皆川亮二の代表作のひとつ
今週の週刊文春のコラムでいしかわじゅんが一色まことの「ピアノの森」について触れていた。
その際、漫画家には2つのタイプがいると書いている。
ちょっとだけ引用させていただく。
漫画家には全部描くタイプと途中から読者に任せるタイプといる。
いやまあその2種類だけとはいわないが、大雑把に分けてしまえば、そうなる。作中ですべてのストーリーや心理描写、情景描写を描き切ってしまう漫画家と、ある程度までのことを描いてそこから先は象徴的なことしか描かずに読者の解釈に任せるタイプと、だいたいふたつのタイプに分かれるのだが、一色まことは圧倒的に前者なのだ。
皆川亮二も、その2分類でいくと全部描くタイプだと思う。
そしてボスキャラとの対決シーンに代表されるクライマックスのアクションシーンを読む(見る)ことが、皆川作品を読むことの大きなお楽しみであることは間違いない。
そして、皆川のアクションシーンを描く表現力には秀でたものがある。
特に、カットとカットをつないでいくアクションシーンにはハッとするものがある。
作者自身も絵と絵をつないで、アクションシーンを紡いでいくことが好きなのではないかと作品を読んでいて感じることがよくある。
私の皆川作品を読む際の大きなお楽しみのひとつは、作品の山場での見せ場を読む(見る)ことだ。
その部分での期待を裏切ることは今までなかったような気がする。
そういう意味でいうと、今回の「PEACE MAKER」は皆川作品としては異色の結末を迎えている。
※以下、ストーリー最後まで書いています(ネタバレ)。
この物語、一応主人公はホープ・エマーソンということになると思う。
そして物語の着地点は物語の初期から提示されていた。
ホープが、兄コール・エマーソンと対決することがクライマックスとなるということが。
2人が対峙するクライマックスがどのように描かれ、どのような結末を迎えるのか。
私はそのシーンがどのようになるのかをずっと思いながら、読み進めていった。
最終巻17巻、G.O.D.(Guns Of Domination)のエンペラーガーデンで、2人は銃を持ちついに対峙する。
ところが、作者は2人の対決シーンを描かなかった。
描かれたのは以下の描写である。
向いあった2人の顔と火を噴く銃口。
そのあとは2つの力がぶつかった象徴的な表現。
その次のページは原子爆弾が爆発するカット。
そして30年後に、首相となった二コラが登場。
彼女とカイル、ミクシー、コニー、エイドリアンというメンバーが核戦争の危機を話し合う。
そして、ひとり屋上に上がったニコラは、自身のピース・メーカーとしての決意を表明する。
最後のシーンではコールの持った銃、黒い羽根のブラックウイングとホープの持った銃、白い羽根のホワイトウィングを納めた壁掛けの額が描かれる。
その額に話しかける、二コラの前にホープとコールの姿が浮き上がる。
17巻の表紙の構図である。
ホープとコールの決闘がどのような結末を迎え、2人がどうなったのかは描かれていない。
読んでいてものすごく戸惑った。
ホープとコールの対決シーンを描くことで、物語はすべて収束するはずだった。
そこに至るまでの、前哨戦となるG.O.D.でのコールVSアトラ、コールVSハイマン、コールVSバケット、ホープVSニコラの対峙シーンと結末はきっちりと描ききっていた。
だが、肝心のホープVSコールを省くとは……
あまりに釈然としないものがあり、時間のあるときに全巻を通して読んでみようと思った。
そして読み返しての感想。
物語は2部構成となっている。
1部の終幕は、ホープとコールの対決第1弾だ(第7巻)。
勝負はホープの一方的な敗北に終わり、「撃たれて崖から海に落ち、ホープ死す」という形で終わる。
その前には、ホープの盟友だった主要キャラクター、ビート・ガブリエルがコールに敗れて死すエピソードもある。
物語の折り返し転換点として抜群のものだと思う。
2部は5年後の世界。ホープに助けられてきた少女・ニコラが成長、ホープの遺志を受け継ぐ銃士として登場する。
かつてホープが持っていた銃、白い羽根の描かれたコルトのホワイトウィングを携えた彼女は、決して人を殺さない銃士となっている。
このあたり「一体この後どうなるんだ」という期待を抱かせる展開でワクワクしながら読み進めることができた。
その後、ホープが生きていたことが明らかになる。
だが、ホープは以前と違い、人を殺める銃士となっていた。
その後、色々あって、ホープとコールはG.O.D.で最後に対峙する。
通読で再度読み直して、改めてわかったことがあった。
「PEACE MAKER」は物語のプロット、キャラクターについては、かなり作り込んでから連載を始めたということだ。
なりゆきで描いていった漫画ではない。
今までの皆川作品では、常に原作、原案、脚本ということでの協力者をクレジットに入れていたが、今回はそれはない。
原作クレジットなしということで、皆川自身がきっちり物語を作りこんだうえで描き進んでいったと思われる。
この漫画を読んでいるとフラッシュバックで登場するカット、シーンが要所要所にある。その描写はかなり詳細なものだ。
初読では気づかなかったが、再読して気づいたことがある。
読み進めていくとそのフラッシュバックのカット、シーンに相当する場面に至るが、その描写はフラッシュバックで登場したシーンと同じである。
当然といえば当然だが、ふつうはシルエット、逆光で姿がはっきりわからならいようにするなどして、後でそのシーンを描くときに齟齬が生じないように描いていることが多い。
この漫画はそのようなことをしていない。
作者が後で描くシーン、キャラクターについてすでにきっちりノートを作っていなければこれはできない。
ということからすると当初から皆川は、ラストのクライマックスを具体的に描くつもりはなかったのかもしれない。
ただ、こればかりは本人ではないのでわからない。
私自身は、再度通読し、さらに読み直してみると納得はできた。
これはこれでいいのではないかと。
やはり、作者は熟考の上で、あえて描かなかったのだと思う。
この部分で評価は分かれる作品だと思うが、全17巻、漫画を読む醍醐味を十分に味わうことができた力作であることは間違いないと思う。
終盤での、映画「ワイルド・バンチ」を思わせる、時代の変化を描いた独特の寂寥感も味わい深かった。
すでに新しい連載「海王ダンテ」も進んでいるので、“皆川劇場”ファンとしては、そちらもまとまったところで感想メモを書いていきたい。