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日野啓三の小説「砂丘が動くように」

小説 書籍

 

砂丘が動くように

砂丘が動くように

 

  

砂丘が動くように (講談社文芸文庫)

砂丘が動くように (講談社文芸文庫)

 

 バージョン違いを読んで作品の奥深さを味わった

日野啓三は2002年に73歳で没している。
私が日野啓三の小説、エッセイを読んでいたのは、彼がまだ生きていたころだから、もう15年以上前ということになる。
十数冊くらいを読んだと思う。

久しぶりに彼の小説「台風の眼」を読み、読み直して感想を残してみようかと思った。

遺作となるエッセイ「書くことの秘儀」に続き読んだのが、この「砂丘が動くように」だ。

中央公論社のハードカバー版を読んだ。
その後、中公文庫版、講談社文芸文庫版で書き直しがあったと知ったので講談社版を読んでみた。

そこには大きな書き直しと驚くべき削除があった。そのことは後で書く。
講談社版の巻末には

本書は、『砂丘が動くように』(1990年3月刊 中公文庫版)を底本として使用し、若干ふりがなを加えた。

とあった。

また講談社版には
・「著者から読者へ」と題した文章
保坂和志による解説
・著者による年譜
が掲載されている。

講談社文芸文庫版の表紙裏にある梗概は以下のテキストだ。

海沿いの砂丘のある町にやってきたルポライターの男が、少年に誘われ迷い込んでゆく奇妙な町の夜と昼の光景。
超能力を持つ少年と盲目のその姉。女装する美しい若者。
夜の闇に異常発生する正体不明の無数の小動物キンチ。刻々に変化して砂防林にも拘らず死滅へと向かう砂丘。
現代人の意識の変容を砂丘の物質のイメージに托しつつ未来宇宙への甦りを象徴させる。第22回谷崎潤一郎賞

読んだ人間としては不出来な印象の梗概ではあるが、上記のような話ではある。

この小説は、登場人物は少なく、文章は読みやすいのだが、読み取るのが難しい。
解説で保坂はこのように書いている。

この『砂丘が動くように』は、日野啓三の作品の中でも際立ってたくさんの要素が投げ込まれ、それらが進行するにつれて錯綜の度合いを深めていくので、読んで、解釈したり理解したりするのは簡単ではない。
一応、それぞれの要素に別けてから、この作品が全体として何を志向しているのか、誤読に陥ることは覚悟のうえで、僕なりに考えてみることにする。

非常に抽象的であり、きわめて象徴的でもある物語だ。
非常に多くの抽象的化された情報がつめこまれている。
色々と思ったことを考えると感想メモが終わらないので、特に私の印象に残った部分を記すことにする。

SF小説、映画などには、“旧世代から新世代への飛躍”を夢想した作品群がある。
起動戦士ガンダム」や「2001年宇宙の旅」などもそんな流れにある作品でもあると思う。アシモフの「ファウンデーション(銀河帝国の興亡)」シリーズもそんな感じだったような記憶が(ものすごい昔に読んだので違ったらすみません)。


これらは、現世代の枠組みを飛び越えた“新人類”の誕生を描く(予期させる)作品である。
この小説もからも、その流れを感じた。
具体的内容は既にうろ覚えだが、この小説を読んでタルコフスキーの映画「ストーカー」を私は思い出した。

 

 映画のラストで、少女が不思議な力を見せる場面が印象に残っている。

 

「砂丘が動くように」の登場人物は基本的に4人である
・砂丘のある町を訪れた、後にゴーストと呼ばれるルポライターの男
・世界各地を放浪した末、東アジアの石窟寺院で聞いた不思議な声の導きで、砂丘の町に戻ったビッキーと呼ばれる30歳前後の男性
・ビッキーと過去に何か“事件”があった砂丘の町で暮らす盲目の女性
・盲目の女性の弟である中学生の少年
上記の4人を通して“新時代”への夢想がつづられた小説というふうに私は読んだ。

中央公論社ハードカバー版では章立てはされていないが、講談社版は
1、2、3、エピローグと
4つ章立てがなされている。

書くのが難しいのだが、各章はこんな感じだろうか。

 

【1】
精神が“壊れた”過去を持つルポライターの男(ゴースト)がふとしたことで砂丘の町を訪れる。
不思議なたたずまいの少年に出会い、その姉である盲目の女性と交流を持つ。
女の家には彼女の作った美しい卵の形をした陶器があり、ゴーストはその“卵”に魅了される。
その後、男は、町で奇妙な魅力を持つ化粧をした美しい青年ビッキーと出会う。
男はこの町、砂丘に何か“縁”のようなものを感じる。

 

【2】
世界を放浪して砂丘の町に戻ったビッキーは、地元ケーブルテレビ局で象徴的な映像作品を製作・放送、若者たちから一種の教祖的な支持を得ていた。
そんな彼が、砂丘、そして町や人間が“キンチ”という何かに“食われている”イメージを“見る”。
ビッキーは死にかけた砂丘を蘇らせるため、砂防林を撤去すべく若者を先導している。
ゴーストもその運動に加わる。

 

【3】
少年はキンチを見て交流することができる。少年にとってキンチは妖精である。
少年の持つ不思議な力が描かれる。
少年は強い“声”に呼ばれ、夕刻の砂丘を訪れる。そこで少年は、砂丘に一人でいるビッキーと出会う。
少年とビッキーは会話をするが、そこには大きな断絶があることが描かれる。

その後、精神的に消耗したゴーストが東京に帰ることになる。
ゴーストと少年は砂丘を訪れる。
そこで少年はゴーストに頼まれ、不思議な力を披露する。
ゴーストはそこで神秘的な体験をする。
だが、少年はその力を使ったことで“向こうの世界”に引き込まれてしまう。
錯乱状態になった少年が幻視したものがつづられる。

 

【Epilogue】
神秘体験の後、意識をほとんど失い入院していたゴーストが退院、東京に帰ることに。
盲目の女と少年はゴーストを見送る。
出かける途中、盲目の女は、心の中で、卵の中にいる"顔"を見る。
ビッキーは最後の映像作品をゴーストに託して町を去ったとゴーストが語る。
少年の作っていた砂丘の盆景の底に飼っていたアリジゴクが羽化し、ウスバカゲロウとなって飛び立っていったことが語られる。
ゴーストは去る間際に「あなたの卵が育っている。そのことをいつも思い出します」と盲目の女に語る。
女は、卵の中で見た顔のことを思い出す。
以下、最後の文。

その顔を粘土でつくってみようと思う。多分一生かかるだろう。

ひとつの側面から見ると、この話は、
“新しい意識”を志向するが、達成しえないゴースト、ビッキーの旧世代と
それを既に持ちえている少年の新世代の話ということもできるのかもしれない。

ビッキーと少年との会話にこんな一節がある。

「きみのいうとおりかもしれない。幾ら努力したって、意識を新しくすることはできないだろう、生まれかわらない限り。
大砂丘のほんの一部の砂をゆするくらいが精々らしいよ」
自分を笑うような声だ。
「ひとりの人間、ひとつの世代、それぞれの時代には、きっとひとつの意識の段階が定められているんだ。
努力して意識の範囲を広げることはできるとしても、一段上の意識に登ることはできないことになっているらしい。
次のより高い意識の段階というのは、前の段階での問題や矛盾をひとつひとつ解決して到達するのではなくて、いまの問題など少しも問題にならない、矛盾が少しも矛盾と感じられない、そういう意識に生まれつく以外にないんだろう。
きみみたいにね。そのことが、やっとわかりかけた……」
(中略)
「ぼくに何かできることがあるかしら」
きみは夕闇に浮かび出したようなビッキーのきれいな白い歯を見上げて、そっと言った。
ビッキーの顔に微笑が浮かんだ。
「ないよ、もちろん」
君も微笑する。
「きみは、そのままでいいんだ。そのままでなくちゃいけない」
ビッキーは強く感情のこもった声で、少年に言った。(中論公論ハードカバー版P206-P207)

その後、少年はゴーストのために風を呼んであげるのだが、そのことで錯乱状態に陥る。

その部分に関してかなりの修正と削除がなされている。

修正部分については「著者から読者へ」で記述がある。

第3章の、少年が嵐のあとの砂丘で風を呼ぶ場面は、1990年に中公文庫に収録されるとき書き直したもので、単行本とは異なっている。
(中略)
作中人物の意識の変容ないし超意識の発動を書くときは、作者自身も破調寸前まで意識をゆすらなければならない。(中略)この作品では譫言(うわごと)のようになった。気味悪い体験の感触が記憶に残っている。(講談社版 P265-P266)

錯乱状態の少年の呪文のような文章表現は圧巻だ。この作品の最大の読み場となっている。

 

そして、削除部分はストーリー上のネタバレ的な部分では非常に大きなものだ。

ハードカバー版では、少年と姉の関係が実は母子であり、ビッキーが父親であることが読み取れる。


P244-P248の5ページにわたるこの部分は講談社版では削除されていた。
(中公文庫版は読んでいないので不明)

錯乱状態に陥りあっち側に行ってしまった少年はある幻視体験をする。こんな内容だ。

砂丘のなかにポツンとある傾いた団地型のアパートに姉がいると感じた少年は、
砂の斜面をのぼり、窓の外から中を見る。
そこには少女時代の姉と膝に抱く赤ん坊がいた。
少年はその赤ん坊が自分であることを感じ取る。
その後少女は、窓外の気配に気づく。
そして少年を少年に似た誰かと感じ、少年の知らない名前で呼びかける。

以下、引用

もう一度、窓を覗きこむ。何か語りかけようと心を集中しかけたが、君はどう呼びかけていいかわからない。
「姉さん」だろうか、「お母さん」だろうか。
姉が顔を上げた。見えない目を窓に向けた。顔色が急に輝くのがわかった。何か言っている。
驚いてではなく、うれしそうに心をこめて。姉のそんな感情のこもった表情を見たことはなかったので、きみは驚くより戸惑う。
感情をこめて、繰り返し姉は名前を呼んでいる。名前を呼びながら、しきりに話しかけている。
男の名前である。きみの知らない名前だ。
姉はぼくを誰かと間違えている。誰と間違えているんだ。
「ぼくだよ、ぼくだってば」
ときみは強く心で言うが、姉の心は感情に溢れて受けつけない。目が見えなくても、いや目が見えないから、姉が人を間違えるなどということはないのに。しかもきみを。
<いつのまにか、ぼくが誰かになっている……>
姉がこんなにも感情をこめてよびかける誰か。きみに似た誰か。多分赤ん坊の父親。きみの父親。きみがきみの父親……。
思わず背後を振り返る。

これは明示ではなく、非常巧みな語り口による暗示である。ここ以前の文章の関連で、ビッキーが少年の父であることが暗示的に語られているのだ。

ストーリー構成に重点を置いた物語であれば、この部分をもっとはっきりさせてメリハリをつければ、エンタテインメント作品として大いに受けるものになり得ると思う。
旧世代の父、新世代の息子という風に。

だが、日野啓三はその部分を廃した。
そして、「著者から読者に向けて」の文書にあるように、
“作中人物の意識の変容ないし超意識の発動”の表現に磨きをかけた。

保坂和志の書いた解説の冒頭、文末はこのようになっている。

一般に日野啓三は知的な作家であると位置づけされているけれど、作品のそのものは実際的にはとても感覚的だ。別の言い方をするなら、文章の一つ一つは端正で明晰でそれの指し示していることを間違えようはないはずなのだけれど、全体として何を描き出そうとしてあるのかを別の言葉で説明するとなると難しい。
(中略)
タルコフスキーが『映像のポエジア』という長篇評論の中で、「啓示のように現われてきた、世界の感覚的に知覚されたイメージに比べたら、思想はつまらないものである」と書いているが、端正で明晰な文体を持ちつつも、知性よりも感覚への信頼に立って、こういう世界を描き出した『砂丘が動くように』という小説は、文学というよりも世界に対する達成といえるのではないだろうか。

単純に面白かった、感動したというわけではない。
だが、日野啓三は他には代えられない読書体験のできる小説を書く作家だと思う。

少しずつ、未読のもの既読のものを読み進めていきたいと思う。

 

キース・ジャレットの『テスタメント』ロンドン編を聴きながら読んだのだが、妙にシンクロするところがあった。 

テスタメント

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