町山智浩,柳下毅一郎,大森さわこ,今野雄二,黒沢清ほか「ゼロ年代アメリカ映画100」
ゼロ年代のアメリカ映画100本を紹介している本。
たまたま図書館で目についたので借りてみた。
2010年12月に発行されたものだ。
各作品ごとの解説は軽く目を通したが、文章があまりこなれていないせいか読みずらく、結局、ほとんど読まなかった。
読んだのは複数の人間が寄稿したコラムだけである。
アマゾンのレビューにも同様の意見があったが、確かにこの本、本編ともいえる100本の解説よりもコラムの方が面白くためになった。
まあ、“カタログ”“記録”として100本の解説は意味があるのかもしれないが。
特に興味深かったのが以下の3つのコラム。
町山智浩の「アカデミー賞に見るゼロ年代アメリカ映画界の様相」
柳下毅一郎「カウフマン対アンダーソン」
黒沢清「00年代アメリカ映画の技術的側面」
以下、簡単な感想メモを
町山智浩の「アカデミー賞に見るゼロ年代アメリカ映画界の様相」
これは町山のトークを基にした文章なのだろうか。
タイトル通りの切り口で、ゼロ年代の製作会社の変遷と作風の変化を池上彰なみの明快さで語り通している。
コラムは2部構成。
まず前半。
ここでは、いわゆるハリウッド・メジャー以外のミラマックスとドリームワークスの台頭と両者によるアカデミー賞の獲得競争を語る。
そしてもう1社ニュー・ライン・シネマを取り上げ、このインデペンデント勢がアメリカ映画の質をあげたが大作主義に走り、結果3社ともに経営的に破綻したと語り、アメリカ映画の製作サイドの事情を俯瞰している。
次に後半。
破綻したドリームワークス、ミラマックスのその後。他社の資本援助で生きながらえているが、ハリウッドの製作事情がゼロ年代後半から変化したことを述べている。
町山としてはゼロ年代に活躍した監督で今後も期待できる人としては、クリント・イーストウッド、スティーブン・スピルバーグを結局挙げている。
ゼロ年代に台頭した監督としてレベルを下げていないのはポール・トーマス・アンダーソンだけとこの時点では語っている。
柳下毅一郎「カウフマン対アンダーソン」
脚本家として知られるチャーリー・カウフマンとポール・トーマス・アンダーソンを比較して、その違いを述べている文章。
この原稿、ラストの展開がよかった。
ビデオ以降の世代であるカウフマンらがさまざまな伏線をめぐらし、見事にそれを回収する精緻なストーリーを作り上げる中で、ポール・トーマス・アンダーソンだけは、それら他者と違うものを提示していることを柳下は指摘している。
その例として彼の監督作の「マグノリア」のシーンを挙げている。
こんな感じである。
「〜たしかに映画を浴びるように見て研究しているシネフィルならではのものである。ビデオ時代の映画作法とも通じるかもしれない。だが『マグノリア』にはひとつだけ、カウフマン的な脚本作りでは決して出てこない場面がある。クライマックスである。そこでは天からカエルの雨が降ってきて、すべてがひとつにつなぎ合わされる。
カエルの雨とはなんだろうか?
それは奇跡である。カエルの雨にはなんの伏線もないし、前後になんの因果関係もない。ただ、それは起きてしまうのだ」(P45-P46)
この文章にはちょっとシビれました。
ちなみにカエルの雨はジャック・フィニィの小説、あと「カラマーゾフの兄弟」にも出てきたような記憶が。未確認です。
黒沢清「00年代アメリカ映画の技術的側面」
技術的側面に着目する際にロバート・ゼメキスとジョン・カサベテスを指標にしている。
この妙に低姿勢で、かつ妙な視点から繰り出される文章は相変わらずでついつい読んでしまった。
結論としては「黒沢清、21世紀の映画を語る」で書いていたような何かこぼれ出るものへの志向性が感じられるものになっていた。アマゾンのレビューを以前書きました。
- 作者: 黒沢清
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ほか、今野雄二の寄稿もある。
ただ、一部の原稿については現状からすると、トッド・フィリップスを知ってる? みたいなもはや古くなってしまったものもある。
巻末に芝山幹郎と中原昌也による「アメリカ映画作家のゼロ年代を振り返る」という対談がある。
両者の意見の微妙な食い違いがなんともいえない雰囲気を醸し出している。
中原の感覚的なものいいとこき下ろしは、数十年前のおすぎの手法に似ていると気付いた。