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江副浩正の回想録「かもめが翔んだ日」

かもめが翔んだ日

かもめが翔んだ日

人と話していてリクルートという会社の特異性に気づき、改めて興味を抱いた。

リクルートについて書かれた本を何冊か読んでみようと思ったが、まずは創業者の書いた本が適切かと思いこの本を選んだ。

この本は、リクルートの創業者江副浩正が、出自からリクルートの保有株売却までについてつづった回想録。
何故か、有名な同名タイトル曲と同じ題名。
著者としては、リクルートロゴマーク"カモメ"、そして"翔ぶ"という言葉にこだわりがあったということなのかもしれない。

自分の生まれから始まり、ダイエー中内氏へのリクルート株売却までをつづっている。
ただし、ルクルート事件について全く触れていない。
以下の三章構成となっている。

第一章 生い立ち
第二章 リクルートと私
第三章 ダイエーへの株譲渡

約半分のページを第三章に費やしている。
株譲渡に至るまでの部分は熱を帯びた文章となっているが、
全体を通して、"赤裸々な告白"のない、淡々とした文章が続いている。
クールで読みやすい文体で整理された情報がつづられたものだった。

江副という人は、1兆円企業を1代で築いたということで"ものすごい人"という風に語られがちだ。
だが、文章を読む限り、江副という人は"天才"というタイプではないように思えた。
偏って突出した才気を感じさせるよりは、実利を追うドラスティックで効率的な手法で成功した人のように思えた。

この本を読んだ印象を一言で言ってしまえば、東大新聞で広告営業をしていたことで偶然チャンスをつかみ、それを拡大させることに成功した人という感じだった。

ドラッカーの経営論、情報理論の開祖ノーバート・ウィナーやフォン・ノイマンの本から学んだ理論が経営の理論的バックボーンとなっていたことがわかった。
そして自由主義経済への信奉も。

こんなことを書いている。

情報理論の開祖ノーバート・ウィナーやフォン・ノイマンの本からも学んだ。それらの書物の中には、万物のなかで人間が最も優れた存在であるのは、人の身体の中に無数のフィードバックの回路が組み込まれているからだ、とあった。リクルートの組織にもフィードバックの回路を極力組み込もうと考えた。(P79)

駒場のクラスメートで、卒業後、経済学部経営学科に再入学した菅原に薦められて、私はP・F・ドラッカーの「現代の経営」を読んだ。そこには「経営とは顧客の創造」「経営とは社会変革」「経営とは実践」という心躍る言葉があった。私は夢中になって繰り返し読み、それ以降ドラッカーが私の書中の師となった。(P83)

私は、イギリスの経済学者アダム・スミスの「国富論」の講義を受け、経済学に関心を抱くようになった。国富論は「個々人が事故の利益のために働けば、資本は富の生産と分配のために有効に働く。政府による既成や統制は小さいほうが望ましい。各々が自らの利益を追求していれば、あたかも「神の見えざる手」に導かれるかのように、国全体として最高の利益が達成される。それゆえ、自由競争に対する政府の干渉は有害である。自由競争のもとでは需要と供給の関係で価格は自ずと決まる」という理論だった。戦後の経済は公定価格とヤミ価格という一物ニ価の統制経済だった。国富論は自由で活力に満ちた魅力あのある世界。アダム・スミスが説いた市場経済の理論が正しいと信じるようになった。(P31-P32)

また、著者は観念的な思考を好まないこともわかった。

駒場の生協には、プラトンソクラテスの弁明」、カント「純粋理性批判」、デカルト「哲学原理」などの本が平積みになっていた。哲学の講義も多かった。私はカール・ヤスパースの「世界観の心理学」の講座を受講したが、難解な観念の世界をまったく理解できなかった。
学生の間で圧倒的に読まれていたのが、マルクスの「資本論」だった。読んで「これは人間らしさを奪う観念の世界」と私は思った。
(中略 アドバルーン上げのアルバイトをしていたときの話)
風のない時は暇。アドバルーンの下で本を読んでいた。当時学生の間で読まれていたゲーテの「ファウスト」、ドストエフスキーの「罪と罰」、カミュの「異邦人」といった難解な世界文学だった。そのような難しい本を読むことで、教養が身につく、と思っていた。(P38)

ヤスパースはともかくとして、ゲーテドストエフスキーカミュを“難解”と語る著者の人文学的素養はかなり低いと言わざるを得ない。

おそらく記憶力、論理的思考能力に優れ、自己改革への志向は高かったと思う。
だが感覚的か、観念的かで分けると著者はあきらかに感覚的な人だったのだろう。
プラトンイデア論などは、さっぱりピンとこなかったのではないだろうか。
まずは“実利”を追う。
“理想”とかそういった観念的な思考から行動するタイプではまったくなかったのだろう。学生運動に対する興味のなさもそのあたりからきているのだろうと思った。

そんな著者が最も影響を受けた文学が「太陽の季節」と語っている。

この本を読んだ限り、この人が“天才”とは私には思えなかった。

ただ、強い自己改革志向の奥底に垣間見える根強いルサンチマン、激しい上昇志向は微かに感じることはできた。
そして、実業から実質引退していながら「本音を語っていない本」という点ではなかなか著者のキャラクターを感じることはできた。
刑が確定する以前に執筆していたということで、思ったことも書く事はできなかったという事情もあるとは思うが、これは著者の“本音を語らない”性格によるところもあるのではないかと思う。

大下英治の「リクルートの深層」

一応記録に残す。

これはつまらなかった。
読み進めるのが結構苦痛だった。
“深層”といいながら非常に浅い。
しかも、江副の生前の行動を見てきたかのように“臨場感たっぷりに”語るのだが、再現ドラマではないのだから勘弁してほしいという感じだ。
そのよりどころはきっと参考文献なのだろう。

著者の名前について微かな記憶があったので調べると、週刊文春小沢一郎のことなどを書いてきた人だった。
下世話な意味で“ジャーナリスティック”、章題、見出しは壮大だが読んでまったく感銘を受けることのない本だった。

途中まで我慢して読んだが、後は飛ばして読んだ。

“深層”を知りたいという人はおすすめできる本ではない。

三浦建太郎の漫画「ギガントマキア」

ベルセルク」は大きな衝撃を受けた漫画だった。

あんな異形の禍々しい存在を漫画で体験したのは初めてだった。
ただ「ベルセルク」はかなり前に通読、新刊が出るときに読むだけなので記憶も薄れている。

今回同じ作者・三浦建太郎の新作「ギガントマキア」を読み、“日本のギーガー”という印象を強く抱いた。
ここに登場するさまざまな造形物は非常にギーガーを連想させる。
ベルセルク」ではここまでギーガー色はなかったような気がする。
ただ、これは私の感覚的な、根拠も確認していないなんとなくの印象なので違うかもしれない。
昨年、映画「ホドロスキーの『DUNE』」を見て、そこに登場したギーガー本人の風貌から「ベルセルク」に登場するゆがんだ容姿の変態男を連想した。
そこから来ているのかもしれない。


同じ“巨人”ネタということで「進撃の巨人」を意識せずに読むことはなかなか難しいが、別の世界観で作られた漫画だった


ウィキペディアでの「ギガントマキアー」の説明

ギガントマキアー」はギリシャ神話にあるゼウス率いるオリュンポスの神々と巨人族との戦いのことだ。
巨人族とは、母なる神ガイアがクロノスの子を宿して生まれたものである。

ギリシャ神話ではガイアは世界の始まりの時から存在した原初神で、世界そのものを象徴する母なる神だ。
ガイアの子どもウラノス、その子どもクロノス、その子どもゼウスと連なる系譜となっている。
そしてウラノスはクロノスに倒され、クロノスはゼウスに倒されている。

1巻しか読んでいないのでまだあいまいだが、多種族を排除、世界環境を支配しコントロールしようとする人間をオリュンポスの神々的なもの。
異形のものも含む多様な生命体のありかたの共存を図るガイア的な使命を託された存在が、主人公のデロスとプロメという設定となっているといっていいだろう。

そんな世界設定の中、巨大化するデロスと人間の念力によって動く巨人がプロレスを繰り広げるのが見どころとなる作品ということになるのだろう。

ただ、このストーリーであればこんなに禍々しい生物を登場させなくても物語をつづることができるのだが、そこに登場させてしまうのが三浦建太郎先生なのだろう。
ユニークな漫画家であることは間違いない。

どこまで話が続けられるかはわからないが、コミックが出る限りは読み進めていってみようと思う。