見て読んで聴いて書く

映像、書物、音楽などについての感想

高木仁三郎「市民科学者として生きる」

原発市民運動の中心的役割を果たしてきた高木仁三郎がガンで死を前にして書いた自伝的書物
東大の理学部化学科を出て原子力関連の研究者を志すが、原子力開発の限界、危険性に気づいたことで大学、企業付きの研究所を離れ、市民科学者として反原発の活動をしてきた足跡が語られている。

原子力神話からの開放」を読み、著者に興味をもったのでこの本を読むことにした。
原子力〜」を読んだときに感じたのが、著者の文章を書くことにおける誠実な姿勢だった。
自分の都合のいいように論旨をすりかえて文章を展開することがない。
非常に明快で平易でわかりやすく、そして謙虚な態度で書かれた文章に感心した。
ものごとを“煎じ詰めて”そのうえで語ることが出来る人だと思った。
この本でもその姿勢は変わっていなかった。

この本は以下の章で構成されている。
序章 激変のなかで
第1章 敗戦と空っ風
第2章 科学を志す
第3章 原子炉の傍で
第4章 海に、そして山に
第5章 三里塚宮沢賢治
第6章 原子力資料情報室
第7章 専門家と市民のはざまで
第8章 わが人生にとっての反原発
終章 希望をつなぐ

以下、自分の心に残った部分を章ごとに書く。

第1章 敗戦と空っ風
故郷群馬のこと、母の家系が士族出身で、士族の“跡取り”として、母方の姓を名乗っていたこと。
そこで、母方の祖母と同居し「武士は高く志をもち、“武士は食わねど高楊枝”というように気位高くしていなくてはならない。こと志と異なることがあれば、切腹をしてでも節を守るのが武士だ」(P23)という教えを受けたと語っている。
そして、敗戦によって今まで大人たちに言われてきたことが180度転換し、国家、大きな組織への不信感が芽生えたことも。
「戦争体験に根ざして次第に私の中に強まっていた考え方の傾向は、国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人たちの言うこともいつ変わるかも分からない。安易に信用しないことにしよう、なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう、というようなことだった。それは信条というよりはある種の直観的警戒心といった方があたっていよう」(P27)と語る。


第2章 科学を志す
少年時代は叙情性ないしロマンチシズムへの傾斜があったが、その一方で情感やイデオロギーを超えた確かなものを求めたいと欲求が強かった著者は科学を志すようになる。
受験勉強においては優秀で全国のベスト10にも入る成績を収め、東大理一に入学。
当初は数学科を志望するが、若手数学者に接し、自分との資質の違いを感じて挫折。化学の道に進む。
当時の時代意識について著者はこう語る。
「要するに、高度成長の時代がまさに始まろうとし、その推進のエンジンのようにして科学技術が存在し、ほとんどの人がその未来にバラ色の夢を描いていた」(P60)
その象徴的な存在として原子力というものがあったと、この後で著者は語る。


第3章 原子炉の傍で
新しい可能性を感じ、著者は核化学(放射化学)を専攻。その理由としてこう語っている。
「時代が原子力の時代へ向かおうとしているという一般的な認識を私も共有し、バラ色の未来をその方向に見ようとしていたこともあったろう」(P71)
大学卒業後、あえて大学院には進まず、東芝―三井系の原子力会社「日本原子力事業株式会社」に入社する。

原子力放射能の実用性が日本で検討され始めた時期だったそうだ。
著者はここで後で整理できたことであるが、と前置きし、
原子力産業は、政治的意図や金融業会の思惑が先行して始められた産業であり、技術進歩を基盤として自ら成長していった産業とはかなり性格を異にしていた」(P72-P73)と語っている。
そんな中、企業の社員となった著者は、個人に対して“横ならび”を強いる会社組織に違和感を覚えるようになっていく。
さらに放射能実験を続ける中で、原子力は人間の現在のテクノロジーの手にあまる存在なのではないかという疑念が生まれてくる。

この章でこの自伝の重要なモチーフとして著者の“プルトニウムに対する思い”が登場する。
人口の元素であるプルトニウム核分裂を起こすことから、プルトニウムを作って使用することで無限のエネルギーを得ることができるのではと当時は期待されていた。
だが、制御することが非常に難しく、しかも極度に強い毒性のため、現在では開発は手付かずとなり、撤退の方向に進んでいる。
著者も当時はプルトニウムについては熱狂したが、徐々にその思いが変化していく。
著者はある専門書をモチーフにして原子力開発・プルトニウムへの“賛同→違和感→反対”の変化をうまく書いている。
この“プルトニウム”というモチーフはこの本全体に通底しているものだ。


第4章 海に、そして山に
会社の中で孤立感を深めた著者は転職を考えるようになる。
やがて辞職した著者は東大原子核研究所に入所。化学研究室に入る。
平穏な研究生活が続くが、
外の社会では、公害問題、市民運動学生運動の勃興などで、象牙の塔のなかにいる科学者としての自分に疑問を抱くようになる。
やがて研究も一段落して、現在の小さな組織の実験ではこれ以上の研究が進められないことがわかってくる。
そんな中、都立大から助教授のポストの声がかかる。
「温室」に居続けては駄目だと思い、学生反乱の時代に大学に飛び込んでみようと“例によってへそ曲がりに”考え都立大に赴任する。


第5章 三里塚宮沢賢治
大学に移った著者は、大学が会社に似ていると失望。
一方、さまざまな社会問題に関心を持つように心がけ、成田空港建設に反対する三里塚闘争にも参加、現地の農民と接することで触発される。
「実際に空港に反対する農民と話してみて、彼の志の高さとでもいうべきことに感動した」(P118)

そんな中、著者は宮沢賢治の以下の言葉と出会い大きな衝撃を受ける。
「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(P120)
これは著者がここで書いている“市民科学者”のことである。

以降、著者は理想家・宮沢賢治の思想と行動を追う。
そして
「職業科学者は一度亡びなければならぬ」(P123)と思うようになる。

著者はここでは賢治が理想を追って設立した私塾・羅須地人協会のことを熱意を込めて語っている。
羅須地人協会は失敗に終わったが、
「私に言わせれば羅須地人協会は、ひとつの実験、自らの人生をまるごと賭けての「実験」だったと思う。実験ならば、失敗は当然のことで、むしろその失敗こそ、次に引き継がれて豊か稔りの種ともなるだろう。実験とはそういうものだ」(P124)
と語っている。
これは終章で書かれる著者が設立した“高木学校”につながっていく。

学園闘争が起こった際、学生からの問題提起に対して正面から応えようとした職業科学者や技術者には
3つの対応があったと著者は語る。

そして、3つとは以下のようになると。
「1つは科学者、技術者という専門家自体が特権的な存在だから、この特権をすてる。いわばこれはドロップアウト派で、実際にそうした人も少なくない。
第2は体制の中にとどまって、その矛盾と闘う、これはいわば内部抵抗派で、この立場を貫いた人は、私の友人・知人には特に多い(最近、定年を迎えて大学を去った人が少なくない)。
第3は、体制内のポストを捨てたうえで、自前の科学(学問)をめざす。すでに述べて来たことから分かるように、私はこの第3の立場だった」(P125)
とはいえ「現代の科学・技術は、研究開発のために巨大なシステムを必要とする。批判的な作業をするためだけにも、一定の組織的背景がなくてはできるものではない、と特に当時は考えられていたので、多くの人は、この第3の道の可能性に否定的だった」(P125)
と語っている。

そして著者は3つ目の道に進んでいく。
ドイツ・ハイデルベルクにあるマックス・プランク核物理研究所で外来研究員として1年働いた後、著者は都立大学を辞職する。


第6章 原子力資料情報室
ライター、翻訳業をしながら市民運動に参加する著者は、反原発の研究者たちによる原子力資料情報室設立に参加、反原発運動に積極的に関わっていく。


第7章 専門家と市民のはざまで
その後、原子力資料情報室代表となった著者は、反原発運動の中心人物として活動するようになる。
そして330万人もの署名を集める大きな運動を起こすが、政治、国という大きな壁にぶつかり成果をあげることなく終わる。
うつ病になった著者は3ヶ月の休養をとることになる。
休養中、著者は
柄にもない「運動のリーダー」を担いすぎたことを反省する。だが「専門家」に徹しきることはしないと誓う。
「二足のわらじをはくのでなく、やることの範囲を絞って科学者=活動家といった地平で仕事をすることも可能ではないか」(P174)と考えるようになる。
そして「プルトニウムという原点に戻ろうと思った」(P174)と語る。
そして制御が困難で毒性の強いプルトニウムを使った原子力事業に強く反対していく。


第8章 わが人生にとっての反原発
7章まで自分史はほぼ語ったとして、著者はここでいままでの総括をする。
ここで著者は自分は“反原発”といっているが、“脱原発”との違いについて大きなこだわりはないと語っている。

当初は原子力産業にかかわる会社で働いていた自分が反原発に変わった転換の時期については、
「70年代初めには、私は原発は人類と共存できないと確信するようにはなっていた」(P199)が、「反原発を本当に自分の課題として、それに人生を賭けようという程の決意はもっていなかった」(P199)と語る。
それがさまざまな運動に参加することで、住民と接していったことから徐々に変わっていったと、いくつもの出会い、事件を通して語る。
推進側からの数々の不法・不当な嫌がらせもあったと言うが、そのことを声高に訴えるのではなく淡々と語るのが著者らしい。

著者は原子力の賛成・反対で人や運動の価値を評価する面が、推進側、反対側両方にあると指摘する。
そのような「唯原発主義」を著者は好まないと語る。
ただ、
「それを承知の上で原発問題にの中にはすべてがあると思うし、この問題に深く関わったことで、科学技術、産業技術の社会的関連や国際敵関連をトータルにとらえることができた」と語る。

以下の文章がそのことを俯瞰して語ったものなので全文を書く。
原発は、言うまでもなく技術的には核兵器と切っても切れない関係にある。核兵器保有をめざす大国が、経済的にはまったく見通しの立たない状況で、潜在的な危険も大きいこの産業へと国家主導的に大量投資をして取り組んだのは、もちろん、核兵器開発に乗り遅れたくないという思惑があったからである。従って、原子力問題には、常にそういう国際政治的力学が背景にあり、国家機密の技術である故の機密性、閉鎖性もつきまとった。
そのことに関連するのだが、原子力のような中集権型の巨大技術を国家や大企業だひとたび保有するならば、核兵器の保有とは別に、それ自体がエネルギー市場やエネルギー供給管理のうえで、大きな支配力、従って権利を保障する。風力とかバイオマスとか太陽電池などの地域分散型のテクノロジーを軽視し、ほとんどの政府がまず原子力にとびついた(その段階での産業化の可能性の不確かさは、前述の分散型ないし再生型のエネルギーが現在もつ不確かさより、はるかに大きかった)のは、この中央集権性ないし支配力にあったと思う。その底流には、巨大テクノロジーと民主主義はどこまで相容れるかという、現代に普遍的な問題が関係している。」(P217)
「あげていけば、まだまだ問題はあるが、要するに、原子力は20世紀的なテクノロジーの一番象徴的なものだろう。それに夢がかけられた時代もあったが、今はその負の遺産をどう克服して21世紀に向かうかが、世界の主要な関心だろう。そのような歴史の流れに関わって生きて来られたのは、幸運なことだった」(P219)

この後、非常に素晴らしいことを書いている。
こちらは個人的なことである。
ここも引用する。
「大学を辞める前に『辞めるな』と忠言されたある先輩に、『結局辞めなかったら今日のように資料室をやれず、原子力問題に集中できなかっただろう。それに、一応科学者として自立的に生きられたのだから、自分の選択は正しかったのではないか』と、ある時言ったことがある。私としては、『見る前に跳べ』方式もあながち否定されるべきではないと言いたかったのである。しかし、私が尊敬するこの先輩は、たちどころに、次のように言った。
『いや、それは違うよ。君は全国の人に支えられ、育てられた。そういう稀な幸運に恵まれたと思うべきだよ』
これには、私は一言も反論できなかった。まったくその通りだと思うと同時に、自分の中に常に存在する思い上がりを指摘されて、恥入る気持ちだった。」(P220)
そして、病に倒れた自分に友人がプレゼントしてくれた書のことを語る。
この書は以下の通り。

  本気
本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしてると
誰かが助けてくれる

友人はこれはお前のことだと言ってプレゼントしてくれたという。

この書をベッドから眺め、著者はこんなことを思ったという。
「実際、私は多くの困難をその都度『誰かに助けられて』乗り越えることができた。もし、『助けられる幸運に恵まれた』という以上の何かが私の側にあったとしたら、確かに私が本気だったという点に尽きるだろう。その意味では大学を辞めて進路を断ったということが、本気にさせるという意味をもったのだろう。
この『本気』を、もう少し分析していくと、確信と希望ということにつきると思う」(P221-P222)

“本気”というものの根底にあるのは“確信と希望”という表現に感心した。
確かにそうかもしれない。
確信と希望があるからこそ人は本気になれるのだ。
楽天的といわれる表現かもしれないが、力強く素晴らしい表現だと思う。

「理想主義者の私は、核のない社会が必ず実現する(出来れば自分の目の黒いうちに)ことへの強い確信をもっている。さらにそのことのために本気になれば私自身が少なくとも一人分の貢献ができるだろうことへ、確信と自信をもっている。だから、私はいつも希望をもって生きていられる。先天的な楽天主義者と評されたが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である」(P222)
そしてこう続ける。
「私の場合は、繰り返し言うように、この確信と希望は、無数ともいえる人々との出会いから生まれた。私が何程のことをしたいとう積りはないが、支え励まし助けてくれた人の多さと質とでは、誇れるものがあるだろう」(P222)

ここでは、本気になれば誰かが助けてくれる、その本気の根底には確信と希望があったからだ、そしてその確信と希望はさまざまな人々との出会いがあったからこそ生まれたのだと感謝の念を示しているのだ。

“幸運”というあいまいな言葉で済まさずに、“本気の行動”と“出会い”が自分を支えてきてくれたことを語っているのだ。
このくだりには正直、感動した。


終章 希望をつなぐ
ここは死を予期した著者が語る言葉となっている。
そして理想と持続ということについても語る。
ここも引用する。
「これまでも述べてきたように、私は理想主義者である。それは終戦時の原体験、三里塚での第二次の原体験、さらに私の生涯を通じて起こった様々な出来事によって次第に確かなものとして人格化されてきたと思うし、そういう趣旨で本書を書いて来た。しかし、もしかすると話は逆で、理想主義的なものが子どもの頃から私につきまとっていて、それによって各種の体験があるひとつの筋道をたどるように整理されてしまったのかもしれない。
理想主義を支えるのは、多分に現実を無視した楽天主義かもしれない。しかし、理想主義者は、現実の熱い壁の前では、常にドン・キホーテ的な、困難とも戯画的ともいえる挑戦を繰り返して挫折している。だが、『水の滴は長い間に岩をもうがつ』たとえで、持続した理想主義は、かならずある結実をもたらすと確信している。前章で私は『確信』の役割を強調したが、それは、自分がその実現を信じていないようなことを口先だけの理念でさけんでみても、人の心に響くはずはないと、私の経験から思うからである。
もうひとつ大事なことは、持続である。ただし、よく言われる『持続は力なり』は、一面においてその通りなのだが、個人の行動や組織のあり方という点では、持続はマンネリズムや退廃の原因にもなりかねないから注意を要する。私は、人から人へ、世代から世代へ、ある同じ志が持続されていく。そういう持続が、理想を単なる理想でなく、現実へと実現させる力に成り得ると信じている。だから、今、私はことさらに、次の世代へとつなげることを重要に考えている。
そして、このつなげるためのキーとなるのは何か、といえば私は『希望』であると思う」(P238-P239)

市民の立場から問題に取組むことのできる「市民科学者」を育成する“高木学校”を著者は晩年に設立した。
現在も高木学校は活動を続けている。
http://takasas.main.jp/index2.html

この人の著作はこれからも折りをみて読み続けていきたい。

市民科学者として生きる (岩波新書)

市民科学者として生きる (岩波新書)