見て読んで聴いて書く

映像、書物、音楽などについての感想

菊地成孔、大谷能生「東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編」

この本、そのうち読んでみようと思っていたのだが、後まわしになっていた。
最近、著者の一人、大谷能生による植草甚一研究本なるものが出ていることを知った。

で、この本のことを思い出し、読んでみることにした。

内容は'04年に東大で行われた“ジャズ”講義の模様を文章化したもの。
1年間の前期が「歴史編」で後期が「キーワード編」となっている。
12年前の講義だが、すでに“終わった時代”のことを語っているので、世相の変化で内容が陳腐化したということはないと思う。
せいぜい、ちょっとした解釈の違いくらいだろう。

現在「歴史編」を読み終えたところ。
続けて「キーワード編」を読み始めたところだ。

内容について忘れるといけないので、例によって感想メモを書く。

書評やほかの人のレビューは読んでいないので、的外れなところがあるかもしれないがとりあえず読んだ印象。

文庫版に付けられた著者2人の対談によると、この本、世の中的には高い評価を得て“売れた”らしい。
東京大学”と“アルバート・アイラー”をタイトルで並べたのも面白いイメージを喚起したのかもしれない。
“東大”でハクも付いたのだろう。

非常にわかりやすく、かつ興味深いものだったが、読んでいて何か引っかかるものがあった。
割とネガティブな印象として。

この本を一言で言えば
池上彰先生なみの明快さでジャズの歴史を語ったもの”
ということになるのだろうか。多少ペダントリーを交えながら。

ただ、その論旨の展開については、門外漢の私が読んでも恣意的な面が感じられた。
そしてその恣意的な面については、講師側からこっちも承知してるよみたいな言い訳がところどころにある。
まず前書で“すべての歴史は偽史である”と語っている周到さだ。
うまくまとめられなかったことを、先に「こっちでも承知してるよ」的に言われても、読んでる方は困ってしまう。
文章を書くということは、基本的には、確信犯的に“投げる”ことではないと思う。。
面倒なところは“投げて”、しかもそれをありがたそうに語られるのは読んでいていい気分のものではない。

そして、一番気になったのが、もしかしたらこの本、現地での取材、事実関係の検証を経ていないのではということ。巻末にちゃんとした参考文献の紹介欄はなかった。本文横にオビで楽譜、人物プロフ、音源タイトルはあるが、参考文献というレベルのものではない。
(講義中に再三、元ネタとして挙げている自著「憂鬱と官能を教えた学校」にはそのあたりは書いてあるかもしれない。いずれ読んでみたい)

もしかするとアメリカ国内でジャズ史を研究している人から見たら、この本はジュリアン・コープ著の「JAPROCKSAMPLER ジャップ・ロック・サンプラー 戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか」みたいなものかもしれない。

ジュリアン・コープが日本のマイナーなロックについて語った「ジャップ・ロック・サンプラー」は普通の日本人が知らないような情報が満載だが、とんでもない事実誤認、勘違いが散見するものだった。知らない部分は妄想で補完、ひどくなると妄想に基づいて論を展開している。
まあ、それはそれで面白いのだが。

この本、“ジュリアン・コープケンブリッジ大学で、日本のロック史の講義をした”みたいなものなのではないか。
読んでいて、そんなシロモノのような気がしてきたのだ。

色々と興味深い情報(おそらく普通のアメリカ人は知らないような)が多く書かれているが、基本的に日本で出版された文献とレコードを聴いての“妄想”から書かれたように思えた。
もしそうだとすると、これがスタンダードなジャズ史などと思われるようになると結構、奇妙なジャズ史観が日本で生まれるということになる。
ジュリアン・コープの場合は面白がれるが、こっちは真贋がまったくわからないだけに「一般的なジャズ史」とされるのはちょっとまずいのでは。しかも東大のお墨付きだ。

しかも、著者はしたり顔で、恣意的であること、間違っていることがあってもオーケーになると留保をつけて語っている周到さだ。

“講義”などというものではなく、
ペダンティックな“ジャズ講談”といったところで読むくらいのスタンスがいいのかもしれない。

ただ、恣意的な妄想は大量に混入しているかもしれないが、大きな部分でのジャズ通史としては、私でも知っていたオーソドックスな流れを踏襲していると思えた。しかもわかりやすい。

著者はジャズ(ポピュラー音楽といっていいのかもしれないが)を「12音平均律」「バークリーメソッド」「MIDI」と3つのキーワードを時系列でとらえて展開している。と思えた。

時系列で追えばこんな感じだろうか。
・バップ(コードとその進行)→モード奏法(コード、およびその進行から解放され、スケールでとらえた曲の流れ)→電気化→デジタル化

そしてここで強調しているのが、“バークリーメソッド”という言葉。
バークリーメソッドについて、私は語る知識はない。
たが、冒頭の講義の展開で私は話のすり替えの匂いを感じた。

私はかつて、ギターをいじって、少しだけコード理論の本を読んだ程度なので、ジャズの専門学校で理論を学んだプロの方に噛み付く知識はないのだが、あえて書く。

ケーデンスという言葉を初めから説明していればすぐにわかることを、中盤まで引っ張ることには、何で? という恣意的なものを感じた。

トニック、サブドミナントドミナント
これは誰でも中学・高校の音楽の授業の際に、ピアノの音で聞いたことがある進行だ。
バークリーメソッドという言葉を使わずとも、クラシック音楽の楽典における、和音の進行で説明できることと思えるのだが。

クラシックの和声研究の成果を、ポピュラーミュージックのコード譜のように親しみやすくしたのがバークリーメソッドなのではないか。そんな風に私は理解していた。

だが、この本では妙にバークリーメソッドに特別な意味づけをしたがっているように感じた。知識がないのでこんな風にしか書けないのが残念だが。
なんか匂うのだ。恣意的なものが。

そしてデジタル(MIDI)についての講義はあまりにも説明不足だと思う。
著者は“高速演算化”など音楽をデータ処理に即した表現で語っていることが時々あったが、そのあたりアナログからデジタルに移行することを目の当たりにした世代でもあり、音楽とデジタルの関係について思い入れが強いようである。
それならもう少し、見解を述べていもいいのではと思う。
ただ、MIDIは信号の形式でありインターフェイスのことなので、音楽の中身と同一視するのには問題がある。
そこのところはあまり考察されていないので、結局、“吹いた”だけで終わった印象がある。
その部分もわかっていながら、未分化のまま投げている。
平均律」「バークリーメソッド」と「MIDI」は音楽における違った領域の問題だと思う。
もちろん深いつながりはあるが。

読んで感じたのは言説の展開が「ずるい」ということ。
やさぐれを気取りながらも逃げ道、アリバイは作っている。

以上が、この本を読んだ感想、印象だ。
私は「ずるさ」をこの本から感じたが、ほかの人は感じないかもしれない。
その印象があって、私はこの本を素直に「面白い」と感じることはできなかった。

ジョン・コルトレーンと“鈴”のこととか、オーネット・コールマンが10歳の息子とアルバムをレコーディングしたときのベースが生真面目な顔をしたチャーリー・ヘイデンとか面白かったのだが、素直に笑えなかった。

あくまでも、著者についての知識がない人間が読んでの感想、印象なので、「キーワード編」を読み終えたら、印象も変化して更新するかもしれない。


ただ、知らなかったこともたくさん書かれてあった。
「スペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック」ってステレオ・ラブのアルバム・タイトルと思ってました。
恥ずかしい。

と、思ったのだが、後で家にあった「モンド・ミュージック」を読んだら、すでにそのことは書いてあった。

モンド・ミュージック

モンド・ミュージック

忘れてたのですね。
漫然と読んだことは忘れてしまうので、こうやって感想、印象を書き残すことの重要さを、またまた強く感じた。

キーワード編も読んだ。↓
http://d.hatena.ne.jp/allenda48/20120405/1333607724