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三浦しをんの小説「あの家に暮らす四人の女」(要注意 ネタバレあり)

 

あの家に暮らす四人の女

あの家に暮らす四人の女

 

 いつもの緩い世界だが、驚くべき手法で書かれたある意味異色作

この作品を読んで、三浦しをんの小説で舞台(モデル)となる場所のことを思った。

東京を舞台にした彼女の小説というと、
「風が強く吹いている」が小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅京王線千歳烏山駅の間くらいの地域。
まほろシリーズ」はかつて作者が住んでいたという町田。
舟を編む」は東大のある本郷あたりの台地地帯。
「政と源」は海沿いの下町。
が思い浮かぶ。


上記の地域については、「政と源」以外ついては、それなりの土地勘もあり、具体的なイメージを膨らませて楽しみながら読むことができた。

今回の小説の舞台は、杉並区の住宅街。
善福寺川流域の緑地帯付近である。
小説では以下のように描写されている。(P22)

四人の女が暮らす庭付きの古い洋館は、東京の杉並区にある。ちょうど善福寺川が大きく蛇行するあたりだ。川辺は公園になっているので、家々が密集した住宅地のわりには、緑が多い印象の町である。(P22)


地図的にはこんなところである。 f:id:allenda48:20161101135130p:plain

実は23区で新宿からJR中央線で西に向かうと、最も緑がある地帯がここなのである。
さらに西に向かうと吉祥寺に井の頭公園、三鷹まで行けば野川公園などがあるが、23区内の西部では最大規模の緑地が川沿いに続いている。
だが、中央線・阿佐ヶ谷駅からはかなりの距離があり、観光地的に注目されることはあまりない地域だ。
大きな名所、史跡としては大宮八幡宮ぐらいしかないのではないだろうか。

町については、こんな具合に紹介されている。

どっちつかずの眠ったような町だ、と佐知はよく思う。牧田家から最寄りのJR阿佐ヶ谷駅までは、徒歩二十分はかかるのでなおさらだ。閑静と言えば聞こえはいいが、つまりは常にまどろんでいるような、なんの変哲もない、静かなだけの住宅街なのである。 (P23)

なかなか面白い場所を選んだなと思った。 ほんとうに何の変哲もない住宅街なのだ。
だが、都内にしては緑は多く、古い洋館があっても不思議ではない。
そしてこの地域にありそうな洋館は由緒ある○○家のというものでなく、比較的庶民的な洋館である。
もしかしたら著者は現在、あのあたりに住んでいるのかもしれない。

そんな、住宅街に建つ古い洋館を舞台にした4人の女性の物語である。
登場するのは老女と中年にさしかかりつつある独身女性の娘、縁あって同居人となった娘と同年齢の女性、そして20代後半の女性。
4人をめぐるいつもながらの、ゆるゆるとした物語である。
女性を主人公とした作品として、三浦しをんには「秘密の花園」という作品がある。

秘密の花園 (新潮文庫)

秘密の花園 (新潮文庫)

 

 横浜の私立女子高に通う3人の女生徒を主人公にした連作中篇集だった。

あの初期作品にはまだあった"ひりひりとした青さ"からすると隔世の感がある。

 

ラストにはこんな文章まである。

それぞれのひとに、悪い行いやまちがった選択はたくさんあったのだろう。これからもあるにちがいない。だが、そのすべてを飲みこみ、毎日はつづいていく。蛇行して流れる善福寺川のように。それでいい。それがいいのだと、佐知はいま心から感じているのだった。

 

読んでいる私は、年齢的にも被る作者自身もそう言っているような気がした。


「蛇行して流れる善福寺川のように。それでいい。それがいい」


そんなに達観しちゃっていいんですか、それでいいんですか?
もっとキリキリとした小説を求めている私は作者に突っ込みたくなった。

ただ、今回の小説、作者の"脳内妄想ユートピア小説"として、普通に面白く読める。
極端に都合のよい展開、都合のよい登場人物。
それでいて面白く読めてしまうのだからすごいことである。

小説の帯にはこんな文字まである。

でも、
夢見たっていいじゃない。
年取って死ぬまで、
気の合う友だちと
楽しく暮らしました。
そんなおとぎ話が
あってもいいはずだ。(本文より)

ただ、その語り口は、縦横無尽である。“名調子”といっていいくらいだ。
そして確信犯的である。


主人公は洋館の主である牧田鶴与の娘である佐知だと思う。
だが、読んでいると、語り手の視点が別の登場人物にするっと変わっていたりする。

さらには、物語の中盤に、突如としてカラスが出現する。

こんな具合である。

「お母さん。なんでミイラが、うちの『開かずの間』にあるの」
「いやがらせかしらねえ」
とつぶやいたきり、肝心の鶴与は言い渋っている。
これではなかなか真相にたどりつけないので、新たな人物にご登場願おう。人物というか、カラスだ。しかしこのカラス、ただの鳥類ではない。
牧田家にほど近い善福寺川、そのほとりに立つ大ケヤキをご存じのかたもおられるだろう。
(中略)
この木をねぐらにするのが、カラスの善福寺丸。
(中略)
善福寺丸は一般的な意味での一羽のカラスではない。カラスの集合知、あるいはカラスのイデアとも言える、完全なカラスだ。
(中略)
よって善福寺丸は、過去も未来も今日この瞬間も、町で生じるすべての事象を、大ケヤキのてっぺんから黒い目で眺めているのだった。
そこで、鶴与にかわって善福寺丸に、「開かずの間」に河童のミイラが眠っていた理由、鶴代(与)と夫になにがあったのか語ってもらうことにする。(P133-P134)

 

何か説明が難しくなったら、超自然的な存在の手を借りて物語を進めるの? そんなのありか? という感じだが、この手を使ったのは三浦しをんは初めてだと思う。
近代小説ではあまり見かけないが、昔の説話ものとかではありそうな手法である。

そしてさらにエンディングのクライマックスでは、暴漢と遭遇、危機に陥った佐知の描写の後、佐知の父親が、これも突如として登場する。
こんな具合である。

佐知、危うし! 逃げろ、逃げるんだ佐知!
私はもう辛抱たまらなくなり、侵入者に飛びかかろうとした。しかしそこは、肉体を持たぬものの悲しさ。つかみかかっても、手が侵入者の体をすり抜けてしまう。
(中略)
唐突に出てきた「私」とは、いったいだれなんだ。疑問に感じられるかたも多いと思うので、緊迫したシーンの最中に恐縮ですが、自己紹介させていただきます。
牧田幸夫です。結婚まえ及び離婚後の姓は神田です。つまり鶴与の元夫にして佐知の父親。カラスの善福寺丸が語ったところの「神田くん」です。
鶴与と別れたのち、私がなにをしていたかといえば、死んでいました。(P253)


そして、驚くべきことを神田くんは語る。

これまで延々と、ときに佐知やそのほかの人々の内心にまで踏みこんで、牧田家の日常について語っていたのは私です。
つまり、鶴与の元夫であり、佐知の父親である、「神田くん」こと牧田幸夫です。
私は死者が行くべきところへ行かず、善福寺丸の力によって牧田家の周辺を浮遊しています。
世の動きのほとんどを知り、牧田家にまつわるひとたちの心の動きすら、覗こうと思えば自在に覗くことができます。人間が言うところの、「神」にほぼ等しい立場となったのです。(P263)


この物語を語っていたのは、幽霊となった神田くんだったのだ!

そして、この神田くんが娘の佐知を助けるために、可笑しくも感動的な働きを見せるのがクライマックスとなっている。

超自然的な存在を使って都合よく物語を進めていくのは現代の普通の小説であれぱ禁じ手だ。
それを堂々と使っているのは、先に書いたように確信犯的にこの小説ではそれをやってしまおう、と作者が考えたからかもしれない。
善福寺川沿いの環境のいい住宅地の広々とした洋館に住む4人の女。
こんなものは現実にはないファンタジーなんだ、そう思ったからこんな荒唐無稽な手法を物語に導入したようにも思える。
いつもの緩い世界ではあるが、手法的には異色作といってもいいのかもしれない。

今回も楽しく読めたが、ただ、もっとキリキリしたものをこの作者には書いていただきたいです。

 

追記:

「週刊文春Web」で作者がこの作品について語っていた。

この小説「谷崎潤一郎メモリアル特別小説」とのことで「細雪」を意識した作品でもあるとのことだった。視点のブレについては以下のように書かれてあった。

プロットやストーリー以上に、この作品が『細雪』を意識したと感じられるのは、語り手の視点について独自の工夫が見られる点だ。

「谷潤先生に限らず、昔の作家には、三人称、いわゆる神の視点で描かれている作品でも、その視点がぶれる瞬間がよくあるんです。作者が突然ひょっこり顔を出したりして、それが生々しくて面白い。この作品でも、三人称の視点を用いつつ、途中で語り手が切り替わるような仕掛けを用意しています。読んでいく中で、なんじゃこりゃ、と思ってもらえれば嬉しいです(笑)」